秤量貨幣に対する定位貨幣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/23 07:23 UTC 版)
「定位貨幣」の記事における「秤量貨幣に対する定位貨幣」の解説
五匁銀 南鐐二朱銀 天保一分銀 日本では江戸時代において、小判や一分判も広義には定位貨幣であるが、多くの場合定位貨幣は小判や丁銀を本位貨幣と位置付け、これらに対し金銀の含有量が減量された南鐐二朱銀、一分銀、二分判、二朱判等をさして呼ぶことが多い。特に江戸時代では銀貨と云えば本来丁銀・豆板銀と秤量貨幣であり、これに対し江戸時代後半から出現した南鐐二朱銀等を定位銀貨と呼ぶ。 これらは主に幕府の財政上から出目を目的として発行され、明和期以降、特に江戸時代後半の文政年間以降に台頭し、幕末には小判や丁銀の流通はほとんど無く、流通する金銀貨は専ら定位貨幣という状況であった。しかし、これらは小判に対する補助貨幣として規定されたわけでもなければ、法貨としての通用制限額が設定されたわけでもなかった。 1765年に鋳造された五匁銀は銀の匁を貨幣単位とする定位銀貨であったが、1772年の南鐐二朱銀は両の1/8であると表示され、1837年の一分銀および1853年の一朱銀に至っては直に金貨の貨幣単位表記となった。このように段階を経て既成事実を積み重ねながら江戸幕府は「銀貨=丁銀・豆板銀」という意識抜き、貨幣の基本単位は「両」であるという洗脳を周到に行っていった。 しかし、このように銀貨の計数化、「両」単位への統一化、出目搾取による名目化を達成し、江戸時代後期に台頭したこれら定位銀貨は、御定相場である金一両=銀六十匁から導かれる額面当りの銀含有量よりも大幅に不足した文字通りの定位貨幣であり、これにより発生した疑似金銀比価によって1859年の開港後、大量の金流失の憂目に遭うことになる。
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