銀座の収入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 10:05 UTC 版)
銀座の営業方式には大別して二通りあり、一つは私領銀山などから産出される灰吹銀を買い集めて丁銀を鋳造し一部を運上として幕府に納める自家営業方式、あるいは天領銀山から産出される公儀灰吹銀を銀座が預り丁銀に鋳造して一部を分一銀(ぶいちぎん)として受取る御用達方式があった。分一銀は元来、鋳造に関する諸経費などの入用として支給される性格のものであったが、新産銀が減少し自家営業方式が困難となった元禄期以降は主な収入源となった。 慶長銀では分一銀率は鋳造高の3%と定められていたが、この頃は銀の産出が最盛期であったから、より利益率の高い自家営業方式による収入が多かった。江戸時代初期には年間16000貫もの寄銀があったと云う。しかし元禄銀以降は新産銀の産出高は衰退し回収される旧銀の吹替えによる鋳造が主流となり、これは御用達方式に準ずるものであった。分一銀は元禄銀は4%、宝永銀は7%、永字銀および三ツ宝銀は10%、さらに四ツ宝銀は13%と引上げられた。特に永字銀以降の高い分一銀率は、荻原重秀が新銀発行に際し将軍の決裁を得ることなく内々に行ったものであるから、銀座を抱込む思索があったものとされる。元禄、宝永期の銀の吹替えにより幕府に納められた出目は27万貫余に登るが、銀座の得た分一銀も12万貫余にも登った。銀座人らはこの莫大な収入により豪遊を極め、「両替町風」とも呼ばれた。一方四ツ宝銀の発行に至り諸色は著しく高騰し正徳4年9月(1714年)に至り米一石が銀230目に達した。このような行き過ぎた銀の吹替えが正徳期の銀座粛正、荻原重秀の失脚につながったとの見方もある。 しかし、正徳銀への吹替えでは分一銀率は慶長銀並みの3%に引下げられ、さらに品位を上げる吹替えであるから出目が得られることもなく銀座は困窮したと云う。さらに当時の流通の主流であった20%の銀を含有する四ツ宝銀2貫目を80%である正徳銀1貫目と引替えたため、不足分は幕府が負担して足し銀せねばならず、吹替高も小額とならざるを得なかった。 分一銀あるいは自家営業方式による利潤のうち、吹高の0.5%分は常是が受け取り、諸経費を除いた利潤が銀座人らに座分配当(ざぶはいとう)として分配された。座分配当の分配方式は慣習により一定の割合で按分されるというもので、銀座年寄らを基準としてこれを一分とし、以下平座役らは一分 = 十歩として年寄役の子は九・十歩、一般の平座役は六歩あるいは五歩(半座)から二歩半(小半)程度、座分の総高は寛文5年(1665年)は455歩であった。また準座人の地位にある銀見役は六歩から二歩半程度であった。 文字銀および南鐐二朱銀では分一銀率が7%に引上げられたが、多くの座人を抱えるようになった銀座は経営が悪化し、次第に上納滞銀が蓄積し明和3年(1766年)には銀8396貫に達した。勘定奉行の川井久敬は明和5年(1768年)に寛永通寳真鍮四文銭を考案し銀座がこの鋳造を請負うこととなったが、これは上納滞銀を幕府に返済せしめる目的もあった。 寛政12年(1800年)の銀座改正以降は銀貨鋳造は幕府の統制が強化された御勘定附切となり、分一銀は勘定所役人管理のもと銀座役所に差し置き、7%のうち半額は産銀買上げ、役人の所入用などに支払われ、銀座分一銀は事実上3.5%となった。座人らには幕府から直接、手当てが支払われることとなった。天保一分銀の鋳造では分一銀率が2.5%になり、天保14年(1843年)の鋳造再開以降は1.6%まで引下げられた。
※この「銀座の収入」の解説は、「銀座 (歴史)」の解説の一部です。
「銀座の収入」を含む「銀座 (歴史)」の記事については、「銀座 (歴史)」の概要を参照ください。
- 銀座の収入のページへのリンク