真鍮四文銭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 07:30 UTC 版)
鉄一文銭は見栄えも悪く不評であったことから川井久敬の建議により真鍮四文銭が制定され、明和5年(1768年)に江戸深川千田新田に銀座監督の下銭座が設けられ、四文銭が鋳造された。川井久敬が銀座に真鍮四文銭の鋳造を請負わせたのは、当時銀座にはおびただしい上納滞銀があり、これを幕府に返済させる手段としての理由があった。 一文銭よりやや大型で、背面に川井家の家紋である波を描きウコン色に輝くこの銭貨は波銭(なみせん)とも呼ばれ好評であった。量目は一匁四分(5.2グラム)、規定品位は銅68%、亜鉛24%、鉛など8%であった。発行初年は二十一波のものであったが、鋳造に困難を来したため、翌年(1769年)からは簡略化した十一波に変更された。 これが発行された頃から、物の値段に16文、24文など4の倍数が多くなり、1串に5つの団子を5文で売られていたのが、1串4つで4文になったという。また、現代の100円ショップに類似したものとして、4文均一の「四文屋」というのもあった。 文政4年(1821年)11月からは浅草橋場で四文銭の増産が行われた。このときのものは規定品位が銅75%、亜鉛15%、鉛など10%へ変更となり、赤みを帯びることから赤銭(あかせん)と呼ばれる。 安政4年(1857年)11月には江戸東大工町で四文銭の鋳造が始まり、規定品位が銅65%、亜鉛15%、鉛など20%となった。黒味を帯び、穿内にやすりがかけられ文久永寳に製作が類似するものがこれであるとされる。 真鍮四文銭の総鋳造高は157,425,360枚、あるいは22,145,520貫文(何枚を一貫文とするか不明)と文献により大きく異なり、明和年間における吹高は1年に55,000貫文と定められ安永3年(1774年)9月には吹高を半減し、その後も随時減じたとの記録もあり、また文政年間の鋳造高は79,700貫文との記録もある。 真鍮當四文銭・明和~安政年間鋳造寛永通寳明和5年(1768年)明和期千田新田銭二十一波 寛永通寳明和6年(1769年)明和期千田新田銭十一波 寛永通寳文政4年(1821年)文政期浅草橋場銭赤銭 寛永通寳安政4年(1857年)安政期深川東大工町銭 安政年間に入ると當百銭、真鍮銭、一文小銭などの相場にはそれぞれ差異が生じ、幕府はたびたび額面通り滞りなく通用するよう触書を出すが市場において差別通用が止まず、慶應元年(1865年)閏5月、ついに天然相場を容認し江戸市中両替屋で銅小銭、真鍮銭に対し増歩通用を認めるに至った。このとき鉄一文銭を基準として以下のような相場となった。天保通寳については従来通り100文で通用するよう申し渡した。 文銭および耳白銭:6文 その他寛永通寳銅一文銭:4文 寛永通寳真鍮當四文銭:12文 文久永寳當四文銭:8文 慶應3年(1867年)、幕府はすべての銭貨を天然相場に委ねる事としたが、銅銭および真鍮銭の相場はさらに上昇した。
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