公鋳銭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 19:31 UTC 版)
真鍮四文銭の成功により銀座が潤ったことに対抗し、金座御金改約の後藤三右衛門光亨の発案により高額の銭貨の発行へ至った。このため天保通寳は金座主導で鋳造が行われることとなった。 規定量目は五匁五分、規定品位は銅78%、鉛12%、錫10%と定められたが、明治の造幣局の分析では銀0.037%、銅81.307%、鉛9.742%、錫8.261%、鉄0.056%、亜鉛0.193%、アンチモン0.035%、砒素0.182%、硫黄0.084%となっている。 天保6年6月15日(1835年)に鋳造が始まり同年9月2日より発行され、鋳造は翌7年12月(1836年)に中断されるが、このときまでの鋳造高は29,710,700枚であった。8年8月(1837年)に再開され、13年1月(1842年)までの鋳造高は10,024,500枚で天保年間の合計は39,735,200枚とされる。天保6年より13年までの総鋳造高を39,732,200枚とする記述もある。何れかが「五」と「二」の読み違いで誤植であることになる。天保年間の鋳造により幕府が得た利益は180,800両である。 弘化4年10月18日(1847年)に鋳造が再開され、これ以降大幅に増鋳され万延年間に最盛期を迎えた。慶應元年11月(1865年)からは大坂難波に設置された銭座でも鋳造が始まり4年1月(1868年)まで行われ、大政奉還の後、新政府に設立された貨幣司は慶應4年4月23日(1868年)より明治3年8月5日(1870年)までに63,913,752枚を鋳造し、天保6年からの総鋳造高は484,804,054枚とされる。 明和年間以降、寛永通寳鉄銭および真鍮四文銭の大量発行により銭相場は下落していたが、天保通寳の発行はこれに拍車をかけることになった。そこで幕府は銭相場の下落を防止するため、天保13年8月に御用相場として一両=6500文の触書を出し、しばらくは一両=6000〜7000文程度で落ち着いたが、幕末期の大量発行に至り慶應年間にはついに一両=10000文を突破した。 また安政年間頃から寛永通寳銅一文銭、鉄一文銭、および真鍮四文銭などの通用において額面からの乖離が著しくなり、文久永寳の発行に至り相場は混乱し、文久2年12月(1862年)に幕府は改めて天保通寳を100文で通用させるよう通達を出したが、実際に100文銭としての通用は困難との申し出もあり、幕府は慶応元年閏5月(1865年)に、鉄一文銭=1文および天保通寳=100文の基準に対し以下のような増歩通用を認めざるを得なくなった。 寛永通寳文銭および耳白銭:6文 その他寛永通寳銅一文銭:4文 寛永通寳真鍮四文銭:12文 文久永寳四文銭:8文 公鋳のものには「長郭」、「細郭」、「中郭」、「広郭」といった手代わりが知られており、「長郭」は「寳」字の「貝」がやや縦長で郭も僅かに縦長の長方形である。他の三種は「貝」が横広でほぼ字体も同一で郭はほぼ正方形であり、郭の幅により分類されているが中間的なものも存在し、制作上の移行期のものと考えられる。 貨幣収集界には天保6年から翌年鋳造分を「長郭」あるいは「中郭」、8年から13年までのものを「細郭」、弘化4年以降のものを「広郭」とする説もあったが、これでは現存数と鋳造数の比率に整合しないとの説もある。いずれにしても「長郭」が初期のもので、「広郭」が後期のものであるとする説は定着している。
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