公金貸付
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 04:48 UTC 版)
公金の貸し付けは江戸時代初期からみられるが、領主財政の窮乏、農村の荒廃が深刻化した田沼時代(宝暦~天明期)の影響もあり、寛政の改革より幕府公金の貸出高が飛躍的に増大した。寛政12年における貸出高は約150万両に及んでいる。貸付金の利子率はほぼ年利1割前後であり、民間の金融市場の利子率よりやや低めであった。貸付金は利殖が目的であったので、対象は困窮民ではなく、大名・旗本の場合は年貢米を、豪農・豪商の場合は家屋敷や田畑を担保にして貸し付けた。この貸付利金は、幕府みずからの財政補塡のほか、農村復興、宿場助成、用水普請助成、鉱山復興などの資金にあてられた。 中でも寛政の改革では、公金貸付として「荒地起返ならびに小児養育御手当」を設け多用していた。これは代官が私領の豊かな豪農に公金を貸し付け、その利金で小児養育や帰農・荒地復興など幕領の困窮した農村の救済に充てることが許された公金貸付であった。陸奥で代官をしていた寺西封元の例をあげると、寺西は幕府から預かった5000両を年利一割で貸し付け、その年500両の利金を小児養育金の支給や帰農のための離村した者の農具代などに使っている(p96,97)。このような運用は他の代官達も採用している。以上のような公金貸付・運用政策は、寛政期以降積極的に採用された幕府の政策であり、定信の考え方に色濃く影響を受けた政策である。
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