松平定信の幕政とは? わかりやすく解説

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松平定信の幕政(寛政の改革)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 05:30 UTC 版)

江戸時代」の記事における「松平定信の幕政(寛政の改革)」の解説

詳細は「寛政の改革」を参照 続いて田沼政治批判した松平定信1787年天明7年)に登場し寛政の改革推進した天明の大飢饉により農業人口が140万人減少し幕府財政百万両赤字予想されていた。 当時現在のような税を取る対価として行政サービスを施すという考えはなかった。しかし、農村への救済策不十分な田沼政策により荒廃一途辿っていた農村と、天明の大飢饉致命的な打撃を受け、このころから不完全ながらも世を経綸し、人民を救うという「経世済民」の思想にもとづいた行政がうまれようとしていた(p44)。 天明の大飢饉直後時期である「寛政の改革」は年貢増徴をおこなえる状況ではなく、「小農経営中核とする維持再建」に力を注くこととなり、農民負担軽減する目的さまざまな減税復興政策おこなった寛政の改革ではこれまでの収奪一辺倒だった政策改め、民を救うための政治へと断行した定信飢餓対策取り組み都市農村問わず凶作自然災害備え米や金銭貯える備荒貯蓄政策推進したそのような増税厳しい状況であった為、定信即効性のある厳し緊縮政策実行し財政再建努めることとなる。最終的に6年たった定信失脚の頃には備蓄金も20万両程に貯蓄することができており、幕府赤字財政黒字となっていた。しかし、倹約令風俗統制令を頻発したために江戸不景気になり、市民から強い反発受けたため、各種法令乱発することになった(p102)。 通説では松平定信田沼意次経済政策ことごとく覆したとされるが、近年ではむしろ寛政の改革には田沼政権との連続面があったと指摘される幕府改革において講じた経済政策は、株仲間冥加金南鐐二朱判、公金貸付など、実は田沼政権のそれを継承したものが多かった(p90)。 1793年7月定信は突然老中解任されることとなり寛政の改革はわずか六年で幕を閉じたその背景として尊号一件などにより、家斉等と定信との対立、その他、大奥予算大幅削減不良女中厳しく罰するなどと定信大奥との対立深刻化などが挙げられる

※この「松平定信の幕政(寛政の改革)」の解説は、「江戸時代」の解説の一部です。
「松平定信の幕政(寛政の改革)」を含む「江戸時代」の記事については、「江戸時代」の概要を参照ください。

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