松平定信の幕政(寛政の改革)
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「江戸時代」の記事における「松平定信の幕政(寛政の改革)」の解説
詳細は「寛政の改革」を参照 続いて田沼政治を批判した松平定信が1787年(天明7年)に登場し、寛政の改革を推進した。天明の大飢饉により農業人口が140万人も減少し、幕府財政は百万両の赤字が予想されていた。 当時、現在のような税を取る対価として行政サービスを施すという考えはなかった。しかし、農村への救済策が不十分な田沼の政策により荒廃の一途を辿っていた農村と、天明の大飢饉の致命的な打撃を受け、このころから不完全ながらも世を経綸し、人民を救うという「経世済民」の思想にもとづいた行政がうまれようとしていた(p44)。 天明の大飢饉直後の時期である「寛政の改革」は年貢増徴をおこなえる状況ではなく、「小農経営を中核とする村の維持と再建」に力を注くこととなり、農民の負担を軽減する目的でさまざまな減税・復興政策をおこなった。寛政の改革ではこれまでの収奪一辺倒だった政策を改め、民を救うための政治へと断行した。定信は飢餓対策に取り組み、都市・農村問わず凶作や自然災害に備え米や金銭を貯える備荒貯蓄政策を推進した。そのような増税が厳しい状況であった為、定信は即効性のある厳しい緊縮政策を実行し財政再建に努めることとなる。最終的に6年たった定信失脚の頃には備蓄金も20万両程に貯蓄することができており、幕府の赤字財政は黒字となっていた。しかし、倹約令や風俗統制令を頻発したために江戸が不景気になり、市民から強い反発を受けたため、各種の法令を乱発することになった(p102)。 通説では松平定信は田沼意次の経済政策をことごとく覆したとされるが、近年ではむしろ寛政の改革には田沼政権との連続面があったと指摘される。幕府が改革において講じた経済政策は、株仲間や冥加金、南鐐二朱判、公金貸付など、実は田沼政権のそれを継承したものが多かった(p90)。 1793年7月、定信は突然老中を解任されることとなり寛政の改革はわずか六年で幕を閉じた。その背景として尊号一件などにより、家斉等と定信との対立、その他、大奥の予算の大幅削減や不良女中を厳しく罰するなどと定信と大奥との対立の深刻化などが挙げられる。
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