松平定永から定猷まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 04:24 UTC 版)
藩主となった松平定永は藩財政の再建にとりかかり、文政7年(1824年)からは10年の期限で藩士の知行を削減した。しかし文政12年(1829年)には江戸八丁堀の上屋敷が類焼し、その後も幕府のお手伝い普請を命じられて藩財政はさらに悪化した。定永は桑名の大商人や大坂商人からの借財と御用金でしのいでいる。なお、大坂で発生した大塩平八郎の乱に触発されて起こった生田万の乱では、桑名藩領として越後にあった魚沼・刈羽・三島・蒲原など4郡の飛び地を統括する柏崎陣屋が襲撃されており、生田ら6人全員が死亡、桑名藩も3名が死亡している。 定永は天保9年(1838年)に死去し、長男の松平定和が第2代藩主となる。定和も財政の再建に努めたが、在任3年足らずで天保12年(1841年)に死去した。このため定和の長男・松平定猷が第3代藩主となるが、その時代には水害に見舞われた。幸いにして豊作が続いて藩の米蔵が満杯になり、借財をすることも5年間はなくなった。しかし手伝い普請に江戸屋敷の類焼、安政の大地震による被災と災害が相次ぐ。しかもこの定猷の時代に幕末の激動期に突入し、房総沿岸の警備や京都警備などを任命されて藩財政はますます苦しくなり、その最中で安政6年(1859年)に急死した。 なお、桑名藩領は表高は11万石であるが、実高は桑名本領地は8万3000石(桑名・員弁・朝明・三重)、越後柏崎が5万9000石の14万石であった。また、天保の改革で水野忠邦や鳥居耀蔵に排斥された南町奉行の矢部定謙は桑名藩に預けられて絶食して憤死している。
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