松平定敬と幕末の動乱
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松平猷(定猷は徳川家定の時代に猷と改名した)の死後、家督は幕末の多事多難のため、嫡子の万之助(松平定教)では無理と見られて、美濃高須藩松平家から松平定敬が初姫の婿養子として第4代藩主に就任した。この定敬は御三家筆頭の尾張藩主徳川慶勝や徳川茂徳、会津藩主松平容保や石見浜田藩主松平武成らの実弟にあたる。定敬は将軍徳川家茂と同じ弘化3年(1846年)生まれであったことから家茂と仲が良く、厚い信任を受けた。元治元年(1864年)には京都所司代に任命されるが、この際に若年であるからと拒絶したものの(『自歴譜』)、実兄の容保が京都守護職にあったため拒絶しきれず就任した。定敬は容保と兄弟のコンビで兄を助けて京都の治安と西国の監視監督を務め、池田屋事件や禁門の変はこの兄弟の時代に起こっている。2回の長州征討や天狗党の乱でも京都の守備を務めた。京都において容保・定敬兄弟が禁裏御守衛総督となった一橋家当主徳川慶喜と協調することで成立した政治体制は、一会桑政権と呼ばれる。一会桑は孝明天皇からの信任を背景として江戸の幕閣からも独立して権力を行使したが、それだけに長州藩はもとより薩摩藩からも打倒目標とみなされるようになる。さらに第二次長州征伐への対応をめぐり、慶喜と会津・桑名両藩が対立して一会桑体制が瓦解する。 その後の孝明天皇の崩御により、会津・桑名両藩は京都政界での足掛かりをほぼ失うこととなった。王政復古後の小御所会議は慶喜と会桑を排除して行われたが、この会議では京都所司代・京都守護職の免職も当初の議題に含まれていた。しかし会議中に松平定敬は京都所司代を自ら辞職し、容保も同様に京都守護職を辞したため、会議結論の辞職要求は徳川慶喜に対するもののみとなった。こののち、京都駐在の会桑両藩の兵力の扱いが問題となり、徳川慶喜は両藩主を引き連れて大坂に引き退くことで一旦事態を収拾したが、江戸の薩摩藩邸焼き討ちの報が入ると旧幕府と会桑の将兵が激昂して武力上洛への流れとなる。鳥羽・伏見の戦いでは会津・桑名の藩兵が主力となって薩摩・長州と激突した。兵力では幕府軍が有利であり、さらに桑名では軍制改革が行われて近代洋式の軍隊となっていたが、肝心の首脳部が旧態依然とした老職で占められていたために、新居良次郎の奮戦も空しく、実力を発揮できずに敗れた。この時の桑名兵の死者は11名、さらに定敬は大坂城まで撤退して城の守りに兵をつかせていたが、徳川慶喜が単身で関東への敵前逃亡を図ると、命令でそれに同行することを余儀なくされた。 桑名本国では1月3日に薩摩討伐の命令が届けられ、出陣の準備を進めていたが、7日以降になると敗戦・藩主の江戸脱出が知らされ、桑名は大混乱となった。 当時、留守を守る筆頭重臣は惣宰職(家老)の酒井孫八郎であったが、酒井は1月10日夕方に15歳以上の藩士および隠居に総登城を命じ、今後の対応策を協議した。対応策として出されたのは以下の3案であった。 新政府軍への恭順・開城する「恭順論」 開城して全藩士が江戸の定敬に合流して今後を決定する「開城東下論」 新政府軍に抗戦して籠城を辞さない「守戦論」 協議は紛糾して意見がまとまらず、やむなく酒井は藩祖の神前において籤を引いてそれに従うことになり、その結果「開城東下論」に決した。 しかし、先の見えない開城東下論そのものに対する不満に加え、徳川家への忠義や新政府への不信から守戦を唱える者、戦いを無謀と考えて恭順を唱える者は納得せず、特に江戸時代以前から桑名一帯に住んできた小領主層の末裔とされる下士の中には、恭順論へ転向のために実力行使を計画する動きがあった。1月11日、そんな下士の一人である矢田半左衛門は同志を集め、先代・猷の実子である松平定教(万之助)を新藩主として擁立し恭順すべきであるとする決議をまとめ、翌日酒井ら重臣たちに決議を突きつけた。これを知った他の恭順派も次々と同様の要請を行い、守戦派もこれに対抗する意見を出した。そこに桑名藩が朝敵に指定された報が入ると、議論は恭順論に一気に傾いた(神前籤引き騒動)。 ただし実際問題として、定敬が京都所司代として重職にあったため藩の財政は火の車であり、軍兵も主力は鳥羽・伏見の戦いで敗れ、桑名にいたのは老幼兵500名に過ぎず、抗戦は不可能に近い状態で、酒井らは猷の正室であった珠光院(真田幸良の娘)の支持を取り付けた。この際に、あくまで降ることを潔しとしない30名ほどが脱藩して定敬のもとに走った。酒井孫八郎はただちに尾張藩の周旋で恭順を新政府に認めて貰おうと策するが、尾張藩の領内不穏の情報(間もなく青松葉事件が発生する)により伊勢亀山藩へ周旋先を変更し、折しも知己であった薩摩藩の海江田信義が東海道軍の参謀として同藩を訪問すると知るや、直接海江田と交渉を行った。その結果、定教と重臣、鳥羽・伏見の戦いの参戦者で桑名に帰還した者を連れて、四日市の東海道鎮撫総督・橋本実梁の下に出頭することになった。1月23日に定教以下が出頭すると、城の明け渡しと全藩士が城外の寺院で謹慎することが命じられ、その保証のため定教が光明寺に幽閉されることになった。酒井は藩存続のためこれを受け入れ、桑名城は1月28日に無血開城となった。 一方、江戸に移った定敬は兄の容保と共に抗戦を主張したが、徳川慶喜が恭順派に回った上に自らの責任を定敬と容保らになすりつけ、2月10日には遂に2人を登城禁止にする有様であった。慶喜にまで見捨てられた定敬は、飛び地である越後柏崎に入って兄の容保と共に抗戦の意を固めた。なお、これに先立つ1月29日には桑名から定教擁立と桑名城開城決定の報告を受けて決定に従う旨を本国に伝えているため、当初は藩の恭順決定に従う心算であって、抗戦論に転じたのは柏崎移動後とみる見解もある。この逃亡の際に定敬は会津藩、さらに越後長岡藩の河井継之助らと攻守同盟を結んだとされている。桑名藩は会津藩など旧幕府軍と共同して立見鑑三郎など一部の藩士が関東各地を転戦し、宇都宮戦争でも敗れはしたが奮戦した。 一方、桑名城および領地は東海道筋最大の藩であり、かつ藩主・定敬の親戚である尾張藩の管理下に置かれ、酒井孫八郎以下重臣から足軽に至るまでの在桑名の藩士771名が城下の8か所の寺院に収容されて謹慎することになった。これらの寺院は近接しており、これはばらばらに幽閉されて連絡が取れなくなることを恐れた酒井ら藩首脳が先手を打って新政府側に提案した策とされている。酒井ら重臣は新政府によって幽閉状態にある定教を新たな藩主として、宥免を得て藩を存続させることを目指しており、謹慎中の藩士たちを密かに京都や江戸・柏崎に派遣している。前者は桑名藩の宥免工作を、後者は宥免の説得材料として“前”藩主である定敬の帰国を促すものであった。当時、藩士たちは謹慎処分中であり、状況によっては新政府に重罰に処せられる可能性があっただけに命がけの役目であった。また、同藩出身の箏曲師・椙村保寿ら桑名の領民の中にも酒井ら重臣と連絡を取り合って工作に当たる者がいた。こうした工作のうち、先に実現したのは前者であった。閏4月3日、新政府は謹慎中の藩士の監視に当たる尾張藩・安濃津藩の嘆願に応える形で藩重臣と鳥羽・伏見の戦いの従軍者以外の藩士については自宅謹慎に切り替えることとなり、桑名藩宥免に向けた第一歩となった。しかし同時に、定敬が降伏しない限り宥免は出来ないことを改めて示した。閏4月29日、定教が幽閉先の四日市から桑名に戻ることが許され、酒井ら重臣が謹慎していた本統寺で引き続き謹慎することになったが、これによって藩庁の機能が復活することになった。本統寺の藩庁は10月に定教の桑名城居住が認められるまで続いた。その後、鳥羽・伏見の戦い後に大坂で謹慎していた藩士や、江戸・柏崎にいて定敬と行動を共にせず桑名への帰還を望む者の帰国問題も浮上するが、鳥羽・伏見の戦いに参加していた藩士のみを寺院に謹慎させ、他の者は自宅などで謹慎させるなどの措置を取っている。これは、開城後の桑名本国の藩士たちが恭順の姿勢を見せていることや、監視要員を出している尾張藩・安濃津藩の経済的負担を考慮したものであった。 一方、柏崎では家老の吉村権左衛門が恭順派として強い権勢を誇っていた。吉村は藩祖の松平定綱が5000石で招いた吉村又左衛門の子孫である。当代の権左衛門は800石であったが、定敬から主戦派の山脇十左衛門を遠ざけた。さらに、吉村が柏崎の全藩士を連れて桑名に戻り恭順しようとする計画を知った定敬は、山脇と結託して吉村を暗殺した。皮肉にもこの日は桑名本国では、桑名藩宥免に向けた新政府による寛典の第1弾が行われた日であった。こうして柏崎の桑名兵は主戦派が実権を握り、山脇や立見が中心人物となって雷神隊など4隊が結成された。この桑名軍は旧幕府軍最強としてその名を轟かせ、旧態依然とした家老らを排除して能力優先の革新的な軍隊となった。この軍隊は高田藩から進撃してきた山縣有朋率いる新政府軍を鯨波戦争で撃破し、その後も各地で新政府軍を破ったが、友軍の長岡藩、会津藩などが敗れて重要な拠点である鯨波と柏崎を放棄せざるを得なくなる。新たに妙法寺を拠点とした桑名軍は、立見の活躍により5月には兵の損失皆無で新政府軍を赤田北方で破っている。長岡戦争でも朝日山合戦で立見は大いに活躍し、東山道軍仮参謀で松下村塾出身の時山直八を討ち取って、新政府軍に大打撃を与えた。しかし彼らの活躍は、結果的に桑名本国の藩士たちの謹慎を伸ばすことになり、主戦論が占める定敬周辺と恭順論で固まった本国の間に溝を深めることになった。 その活躍も長くは続かず、立見と共に優秀な指揮官だった河井が戦死、さらに新発田藩の裏切りで新政府軍が海路から新潟に上陸するに及んで、戦線は瓦解した。定敬は兄の容保を頼って会津に落ち延びた。会津戦争でも桑名軍は会津軍と共同して激戦を繰り広げ、立見は自ら抜刀して薩摩軍と戦うほどに奮戦した。その後、寒河江で最後の決戦をした立見ら桑名軍は、庄内藩の軍勢と共に降伏した。 会津からさらに逃亡を続ける定敬は、名を一色三千太郎と改めて榎本武揚と共に箱館に渡った。この際に定敬に随従した17人が、土方歳三の新撰組に入隊している。一方、藩の存続のため定敬の身柄を新政府に差し出す必要があると判断した酒井孫八郎は、自ら五稜郭に乗り込んで定敬を連れ出す決意をし、11月4日に桑名を出発して東京に入り、そこから尾張藩と新政府の了承を得て12月24日に蝦夷地へ入り、翌年1月1日に定敬と面会するとともに、榎本武揚・土方歳三・板倉勝静らに定敬の引渡を要求した。4月になって新政府軍が五稜郭に迫ると、酒井は定敬を強引に連れ出して船に乗せ、酒井は先に東京へ入って定敬を出頭させる準備を始めた。定敬は上海にまで密航逃亡したが、路銀が尽きて外国への逃亡を諦め、新政府に降伏した。
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