松平定敬と幕末の動乱とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 松平定敬と幕末の動乱の意味・解説 

松平定敬と幕末の動乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 04:24 UTC 版)

桑名藩」の記事における「松平定敬と幕末の動乱」の解説

松平猷(定猷は徳川家定時代に猷と改名した)の死後家督幕末多事多難のため、嫡子之助(松平定教)では無理と見られて、美濃高須藩松平家から松平定敬初姫婿養子として第4代藩主就任した。この定敬は御三家筆頭尾張藩主徳川慶勝徳川茂徳会津藩松平容保石見浜田藩松平武成らの実弟にあたる。定敬は将軍徳川家茂と同じ弘化3年1846年生まれであったことから家茂と仲が良く、厚い信任受けた元治元年1864年)には京都所司代任命されるが、この際若年であるから拒絶したものの(『自歴譜』)、実兄の容保が京都守護職にあったため拒絶しきれず就任した。定敬は容保と兄弟コンビで兄を助けて京都治安西国監視監督務め池田屋事件禁門の変はこの兄弟時代起こっている。2回の長州征討天狗党の乱でも京都守備務めた京都において容保・定兄弟禁裏御守衛総督となった一橋当主徳川慶喜協調することで成立した政治体制は、一会桑政権呼ばれる一会桑孝明天皇からの信任背景として江戸幕閣からも独立して権力行使したが、それだけ長州藩もとより薩摩藩からも打倒目標みなされるうになる。さらに第二次長州征伐への対応をめぐり、慶喜会津桑名両藩が対立して一会桑体制瓦解するその後孝明天皇崩御により、会津桑名両藩は京都政界での足掛かりをほぼ失うこととなった王政復古後小御所会議慶喜と会排除して行われたが、この会議では京都所司代京都守護職免職当初議題含まれていた。しかし会議中松平定敬京都所司代を自ら辞職し、容保も同様に京都守護職辞したため、会議結論辞職要求徳川慶喜対するもののみとなったこののち京都駐在の会両藩の兵力扱い問題となり、徳川慶喜は両藩主引き連れて大坂引き退くことで一旦事態収拾したが、江戸薩摩藩焼き討ちの報が入ると旧幕府と会将兵激昂して武力上洛への流れとなる。鳥羽・伏見の戦いでは会津桑名の藩兵が主力となって薩摩長州激突した兵力では幕府軍が有利であり、さらに桑名では軍制改革が行われて近代洋式軍隊となっていたが、肝心首脳部旧態依然とした老職占められていたために、新居次郎奮戦空しく実力発揮できずに敗れた。この時の桑名兵の死者11名、さらに定敬は大坂城まで撤退して城の守りに兵をつかせていたが、徳川慶喜単身関東への敵前逃亡を図ると、命令でそれに同行することを余儀なくされた。 桑名本国では1月3日薩摩討伐命令届けられ出陣準備進めていたが、7日以降になると敗戦藩主江戸脱出知らされ桑名大混乱となった当時留守を守る筆頭重臣は惣宰職(家老)の酒井孫八郎であったが、酒井1月10日夕方15歳上の藩士および隠居に総登城命じ今後の対応策を協議した対応策として出されたのは以下の3案であった新政府軍への恭順開城する「恭順論」 開城して全藩士江戸の定敬に合流して今後決定する開城東下論」 新政府軍抗戦し籠城辞さない守戦論」 協議紛糾して意見まとまらずやむなく酒井藩祖神前において籤を引いてそれに従うことになり、その結果開城東下論」に決した。 しかし、先の見えない開城東下そのもの対す不満に加え徳川家への忠義新政府への不信から守戦唱える者、戦い無謀考えて恭順唱える者は納得せず、特に江戸時代以前から桑名一帯住んできた小領主層の末裔とされる下士中には恭順論へ転向のために実力行使計画する動きがあった。1月11日、そんな下士一人である矢田左衛門同志集め先代・猷の実子である松平定教之助)を新藩主として擁立し恭順すべきであるとする決議をまとめ、翌日酒井重臣たちに決議突きつけた。これを知った他の恭順派も次々と同様の要請行い守戦派もこれに対抗する意見出した。そこに桑名藩朝敵指定された報が入ると、議論恭順論に一気に傾いた(神前籤引き騒動)。 ただし実際問題として、定敬が京都所司代として重職にあったため藩の財政火の車であり、軍兵主力鳥羽・伏見の戦い敗れ桑名にいたのは老幼500名に過ぎず抗戦不可能に近い状態で、酒井らは猷の正室であった珠光院(真田幸良の娘)の支持取り付けたこの際に、あくまで降ることを潔しとしない30名ほどが脱藩して定敬のもとに走った酒井孫八郎はただちに尾張藩周旋恭順新政府認めて貰おう策するが、尾張藩領内不穏情報間もなく青松葉事件発生する)により伊勢亀山藩周旋先を変更し折しも知己であった薩摩藩海江田信義東海道軍の参謀として同藩を訪問すると知るや、直接海江田交渉行ったその結果、定教と重臣鳥羽・伏見の戦い参戦者で桑名帰還した者を連れて四日市東海道鎮撫総督橋本実梁の下に出頭することになった1月23日に定教以下が出頭すると、城の明け渡しと全藩士城外寺院謹慎することが命じられ、その保証のため定教が光明寺幽閉されることになった酒井は藩存続のためこれを受け入れ桑名城1月28日無血開城となった一方江戸移った定敬は兄の容保と共に抗戦主張したが、徳川慶喜恭順派に回った上に自らの責任を定敬と容保らになすりつけ2月10日には遂に2人登城禁止にする有様であった慶喜にまで見捨てられた定敬は、飛び地である越後柏崎入って兄の容保と共に抗戦の意を固めた。なお、これに先立つ1月29日には桑名から定教擁立桑名城開城決定報告受けて決定に従う旨を本国伝えているため、当初は藩の恭順決定に従う心算であって抗戦論に転じたのは柏崎移動後とみる見解もある。この逃亡の際に定敬は会津藩、さらに越後長岡藩河井継之助らと攻守同盟結んだとされている。桑名藩会津藩など旧幕府軍と共同して立見鑑三郎など一部藩士関東各地転戦し宇都宮戦争でも敗れはしたが奮戦した一方桑名城および領地東海道最大の藩であり、か藩主・定敬の親戚である尾張藩管理下に置かれ酒井孫八郎以下重臣から足軽に至るまでの在桑名藩士771名が城下の8か所の寺院収容され謹慎することになった。これらの寺院近接しており、これはばらばらに幽閉され連絡取れなくなることを恐れた酒井ら藩首脳先手打って新政府側に提案した策とされている。酒井重臣新政府によって幽閉状態にある定教を新たな藩主として宥免得て藩を存続させることを目指しており、謹慎中の藩士たちを密かに京都江戸柏崎派遣している。前者桑名藩宥免工作を、後者宥免説得材料として“前”藩主である定敬の帰国促すものであった当時藩士たちは謹慎処分中であり、状況によっては新政府重罰処せられる可能性があっただけに命がけ役目であったまた、同藩出身箏曲師・保寿ら桑名領民中にも酒井重臣連絡取り合って工作に当たる者がいた。こうした工作のうち、先に実現したのは前者であった閏4月3日新政府謹慎中の藩士監視に当たる尾張藩安濃津藩嘆願応える形で藩重臣鳥羽・伏見の戦い従軍以外の藩士については自宅謹慎切り替えることとなり、桑名藩宥免向けた第一歩となった。しかし同時に、定敬が降伏しない限り宥免出来ないことを改め示した。閏4月29日、定教が幽閉先の四日市から桑名に戻ることが許され酒井重臣謹慎していた本統寺引き続き謹慎することになったが、これによって藩庁機能復活することになった本統寺藩庁10月に定教の桑名城居住認められるまで続いたその後鳥羽・伏見の戦い後に大坂謹慎していた藩士や、江戸柏崎にいて定敬と行動を共にせず桑名への帰還を望む者の帰国問題浮上するが、鳥羽・伏見の戦い参加していた藩士のみを寺院謹慎させ、他の者は自宅などで謹慎させるなどの措置取っている。これは、開城後の桑名本国藩士たちが恭順姿勢見せていることや、監視要員出している尾張藩安濃津藩経済的負担考慮したものであった一方柏崎では家老吉村権左衛門恭順派として強い権勢誇っていた。吉村藩祖松平定綱5000石で招いた吉村左衛門の子孫である。当代左衛門800であったが、定敬から主戦派の山脇左衛門遠ざけた。さらに、吉村柏崎の全藩士連れて桑名戻り恭順ようとする計画知った定敬は、山脇結託して吉村暗殺した皮肉にもこの日は桑名本国では、桑名藩宥免向けた新政府による寛典第1弾が行われた日であった。こうして柏崎桑名兵は主戦派が実権握り山脇立見中心人物となって雷神隊など4隊が結成された。この桑名軍は旧幕府最強としてその名を轟かせ旧態依然とした家老らを排除して能力優先革新的な軍隊となった。この軍隊高田藩から進撃してきた山縣有朋率い新政府軍鯨波戦争撃破しその後各地新政府軍破ったが、友軍長岡藩会津藩などが敗れて重要な拠点である鯨波柏崎放棄せざるを得なくなる。新たに妙法寺拠点とした桑名軍は、立見活躍により5月には兵の損失皆無新政府軍赤田北方破っている。長岡戦争でも朝日山合戦立見大い活躍し東山道軍仮参謀松下村塾出身時山直八討ち取って新政府軍大打撃与えた。しかし彼らの活躍は、結果的に桑名本国藩士たちの謹慎伸ばすことになり、主戦論占める定敬周辺恭順論で固まった本国の間に溝を深めることになった。 その活躍長く続かず立見と共に優秀な指揮官だった河井戦死、さらに新発田藩の裏切りで新政府軍海路から新潟上陸する及んで戦線瓦解した。定敬は兄の容保を頼って会津落ち延びた会津戦争でも桑名軍は会津軍と共同して激戦繰り広げ立見は自ら抜刀して薩摩軍と戦うほどに奮戦したその後寒河江最後の決戦をした立見桑名軍は、庄内藩軍勢と共に降伏した会津からさらに逃亡続ける定敬は、名を一色三千太郎改め榎本武揚と共に箱館渡ったこの際に定敬に随従した17人が、土方歳三新撰組入隊している。一方、藩の存続のため定敬の身柄新政府差し出必要がある判断した酒井孫八郎は、自ら五稜郭乗り込んで定敬を連れ出す決意をし、11月4日桑名出発して東京入り、そこから尾張藩新政府了承得て12月24日蝦夷地入り翌年1月1日に定敬と面会するとともに榎本武揚土方歳三板倉勝静らに定敬の引渡要求した4月になって新政府軍五稜郭に迫ると、酒井は定敬を強引に連れ出して船に乗せ酒井先に東京へ入って定敬を出頭させる準備始めた。定敬は上海にまで密航逃亡したが、路銀尽きて外国への逃亡諦め新政府降伏した

※この「松平定敬と幕末の動乱」の解説は、「桑名藩」の解説の一部です。
「松平定敬と幕末の動乱」を含む「桑名藩」の記事については、「桑名藩」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「松平定敬と幕末の動乱」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「松平定敬と幕末の動乱」の関連用語

1
6% |||||

松平定敬と幕末の動乱のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



松平定敬と幕末の動乱のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの桑名藩 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS