松平好景の戦死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/27 13:30 UTC 版)
そして永禄4年(1561年)4月15日、吉良義昭は一計を案じ、富永忠元に数百騎を授け、酒井忠尚の守る城、上野城(現・愛知県豊田市)を攻めさせた。家康から指示を受けた好景は、康忠と嫡男伊忠を出動させ、深溝城へ戻った。その隙を突いて、吉良義昭は中島城を攻めた。好景はすぐに留守の一族・家臣僅か50余騎を率いて、中島へ向かった。散々に敵を蹴散らした後、敗走する吉良軍を追撃した。しかし、吉良方の忠元は軍を返し、吉良軍を追撃する好景をさらに追撃し、好景の退路を断った。吉良領で、好景等は伏兵に行く手を遮られ、吉良勢に囲まれた。勇戦して、敵中を切り抜け中島へ戻ろうとしたが、好景はじめ一族の者21人、家臣等34人全員倒れ、生還する者はなかったという。 この場所は後に鎧ヶ淵古戦場とも呼ばれるようになった。好景が討たれた場所は、善明堤の近く(下永良)。胴塚がある。
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