大岡支配役人
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正高は元町人で、下町での商いや、山事(やまごと、投機)などで世間を渡る、世間師のような人物で蓑家の養子となっていた。どのような縁でかは不明であるが、田中休愚の元へ出入りして普請技術を学び、休愚の娘を妻とする。義父の休愚の仲介で享保14年(1729年)8月に在方普請役格となり、休愚とともに大岡忠相配下の役人集団の1人として関東の農政に携わった。休愚や正高といった武士以外の者が役人として登用されるに至ったのは、年貢増収を目的とした新田開発を担当する「関東地方御用」を町奉行が兼任することになり、人手不足により大岡が身分に関係なく有能な人材を徴用したことによる。 享保17年(1732年)6月11日、支配勘定格に昇進し、亡くなった休愚の後任として相模国酒匂川流域の3万3560石余の支配を命じられる。この際に、正高は身分が低く家も無く下僚の手代などを雇うのも困難であるとして、大岡は必要経費として金60両の拝借金を老中の松平乗邑に申請し、許可されている。 富士山の宝永大噴火により荒廃した酒匂川流域は、田中休愚により普請工事が行われ、後に正高もそれに加わって享保12年(1727年)5月に完了。両岸地域は大岡支配役人の1人である岩手信猶の担当となる。享保17年(1732年)閏5月に岩手が死去した後、同じく大岡配下の役人である荻原乗秀の預かりを経て、酒匂川流域は正高の支配地となった。同年5月1日から、正高は勘定所役人の井沢弥惣兵衛為永を責任者として東岸の普請工事を行っていたが、負担増加に村々が反発し、7月中旬頃に普請は中止となる。8月下旬に正高が担当者となって御救普請として工事は再開される。 寛保3年(1743年)7月5日、正高の支配地が再び増加され支配地が7万石となる。延享2年(1745年)に大岡忠相が関東地方御用掛を辞任したことに伴い、正高は最後まで大岡の支配下に残っていた川崎平右衛門とともに勘定奉行支配下へと異動。大岡役人集団は解散となった。正高の異動後、酒匂川の普請事業は勘定吟味役の伊沢弥惣兵衛正房の担当となった。 寛延2年に小普請となるが、正高の後、蓑家は4代にわたり代官職を受け継ぐ。
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大岡支配役人
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大岡越前守忠相は、享保7年(1722年)から関東の農政を掌る関東地方御用掛という職に就いており、配下の野村時右衛門と小林平六に武蔵野新田の開発を命じた。野村と小林は押立村の名主だった定孝に開発を請け負わせたが、後に2人は不正や納入する年貢の滞納などを理由に罷免される。新田の開発はその後も定孝に任され、完成した後、同地は大岡の配下の役人・上坂政形の支配所となる。 定孝は上坂の下で、武蔵野新田の竹林や栗林の植林などの御用を務めるが、元文3年(1738年)に新田は大凶作に見舞われる。大岡は上坂に御救米や御救金を与えるよう指示を出した後、定孝を役料10人扶持の新田世話役に任命し、彼の下役2人にも、それぞれ金10両2人扶持を与える。定孝は復興のため「飲水堀用水」と「出百姓立帰料(でひゃくしょうたちかえりりょう)」の費用として、1ヵ年250両の6ヵ年支給を大岡を通して幕府に申請し、認められる。農業精励の度合いに応じて褒美を与える奨励金制度を設けたほか、江戸からの肥料の仕入れをまとめて行うことで費用を安くし、収穫した大麦や小麦などをその年の相場の1、2割増しで買い上げ、各村に備荒用に貯蔵させるなど様々な施策を行った。また、困窮した民を救済するための「御救普請」も実施し、その際に人足役を仁・義・礼・智・信の5段階に分けて扶持米を支給している。 定孝は翌元文4年(1739年)8月8日に「南北武蔵野新田世話役」に任命され、上司である上坂の指図を受けること、手代格で20人扶持を給されること、書記など下役2名を召し抱えること、下役の者たちに6両2人扶持ずつを下されること、扶持・筆墨紙などの入用が与えられることが申し渡される。定孝は各村の村役人を案内人とし、下役2人とともに百姓家を1軒ごとに、その暮しの様子を細かく調査・記録して実態把握と指導に努めた。上坂は、1500両の新田開発料を、年1割の利息で農民に金を貸付け、その利金を新田開発にあてる公金貸付政策に運用したが、定孝はそこに4060両の資金を追加して新田経営の安定化を図る。 在地に密着した働きぶりが認められ、大岡の上申により、定孝は翌元文5年(1740年)4月に上坂の下から離れて独自に裁量する権限を与えられる。定孝の仕事ぶりは将軍・徳川吉宗の耳にも達しており、寛保2年(1742年)8月に関東一帯が大洪水に見舞われた際、吉宗は定孝を指名し、被害状況の実地見分と救済対策の立案を命じている。この時の洪水の影響で玉川上水の濁りがひどくなったため、同年9月22日に泥の除去作業を行うことが決まり、まず上坂が同地の見分を行った。上坂が普請費用を9000両と見積ったのに対し、勘定方役人の井沢弥惣兵衛正房は6000両でできると見積もったが、定孝は普請工事をさらに低い4000両で仕上げながら、外見は1万両に匹敵する出来ばえだったということで、大岡が定孝への褒美を要求したという記録が残されている。なお、元文年間には、大岡に命じられ、玉川上水沿いの小金井に桜の植樹も行っている。 寛保3年(1743年)7月、上坂政形が勘定奉行配下に異動して支配地が下総国内に代わったのに伴い、支配勘定格となった定孝は上坂が担当していた3万石の地の支配を任される。延享2年(1745年)、大岡が地方御用掛を辞任した際、最後まで大岡配下の役人として残った蓑正高と定孝は勘定奉行支配へと移管された。その4年後の寛延2年(1749年)6月、蓑とともに武蔵野新田の支配から退き、以後、武蔵野新田の統治は関東郡代伊奈氏によって行われる。 定孝が新田世話役に任命された後、押立村の名主役は弟の川崎平蔵に譲られている。平蔵は寛保元年(1741年)に孝子長五郎の孝行ぶりを上坂と兄の定孝に報告し、長五郎へ褒賞が与えられることになった。
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大岡支配役人
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大岡は地方御用掛を遂行するため、様々な人物を配下の役人として登用する。それは幕臣に限らず、在野の浪人や宿場名主など多様で、特に地方巧者と呼ばれる治水・灌漑に長けた者たちが多かった。 岩手藤左衛門信猶 - 小普請から登用。 荻原源八郎乗秀 - 小普請から登用。元禄の貨幣改鋳を行った荻原重秀の子。 小林平六 - 浪人。 野村時右衛門 - 浪人。 田中休愚右衛門喜古 - 川崎宿名主。 蓑笠之助正高 - 猿楽師。 田中休蔵喜乗 - 田中喜古の子。父の死後、跡を継ぐ。 上坂安左衛門政形 - 南町奉行所与力。 川崎平右衛門定孝 - 武蔵国多摩郡押立村名主。 彼らは大岡を「御頭(おかしら)」と呼び、上坂安左衛門・蓑笠之助・田中喜乗の3人は、「大岡支配下の三代官」と呼ばれ、大岡の腹心として活躍した。彼らは町奉行の大岡に所属しており、享保年間には地方御用掛の人件費の予算・決算書類は町奉行所で作成されていた。
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