大岡支配役人とは? わかりやすく解説

大岡支配役人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/27 23:54 UTC 版)

蓑正高」の記事における「大岡支配役人」の解説

正高元町人で、下町での商いや、山事やまごと投機)などで世間を渡る、世間師のような人物家の養子となっていた。どのような縁でかは不明であるが、田中休愚元へ出入りして普請技術学び、休愚の娘を妻とする。義父の休愚の仲介享保14年1729年8月在方普請役格となり、休愚とともに大岡忠相配下役人集団1人として関東農政携わった。休愚や正高といった武士以外の者が役人として登用される至ったのは、年貢増収目的とした新田開発担当する関東地方御用」を町奉行兼任することになり、人手不足により大岡身分に関係なく有能な人材徴用したことによる享保17年1732年6月11日支配勘定格に昇進し亡くなった休愚の後任として相模国酒匂川流域の33560石余の支配命じられるこの際に、正高身分低く家も無く下僚の手代などを雇うのも困難であるとして、大岡必要経費として金60両の拝借金老中松平乗邑申請し許可されている。 富士山宝永大噴火により荒廃した酒匂川流域は、田中休愚により普請工事が行われ、後に正高もそれに加わって享保12年1727年5月完了両岸地域は大岡支配役人の1人である岩手信猶担当となる。享保17年1732年)閏5月岩手死去した後、同じく大岡配下役人である荻原乗秀預かり経て酒匂川流域正高支配となった同年5月1日から、正高勘定所役人井沢弥惣兵衛為永責任者として東岸普請工事行っていたが、負担増加々が反発し7月中旬頃に普請中止となる。8月下旬正高担当者となって御救普請として工事再開される寛保3年1743年7月5日正高支配地が再び増加され支配地が7万石となる。延享2年1745年)に大岡忠相関東地方御用掛辞任したことに伴い正高最後まで大岡支配下残っていた川崎平右衛門とともに勘定奉行支配下へと異動大岡役人集団解散となった正高異動後、酒匂川普請事業勘定吟味役伊沢弥惣兵衛正房の担当となった寛延2年小普請となるが、正高の後、家は4代にわたり代官職受け継ぐ

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大岡支配役人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/04 23:52 UTC 版)

川崎定孝」の記事における「大岡支配役人」の解説

大岡越前守忠相は、享保7年1722年)から関東農政掌る関東地方御用掛という職に就いており、配下野村時右衛門小林平六武蔵野新田開発命じた野村小林押立名主だった定孝に開発請け負わせたが、後に2人は不正や納入する年貢滞納などを理由罷免される新田開発その後も定孝に任され完成した後、同地大岡配下役人上坂政形支配所となる。 定孝は上坂の下で、武蔵野新田竹林栗林植林などの御用務めるが、元文3年1738年)に新田大凶作に見舞われる大岡上坂御救米御救金を与えるよう指示出した後、定孝を役料10扶持新田世話役任命し彼の下役2人にも、それぞれ102人扶持与える。定孝は復興のため「飲水用水」と「出百姓立帰料(でひゃくしょうたちかえりりょう)」の費用として、1ヵ年250両の6ヵ年支給大岡通して幕府申請し認められる農業精励度合いに応じて褒美与え奨励金制度設けたほか、江戸からの肥料仕入れまとめて行うことで費用安くし、収穫した大麦小麦などをその年の相場1、2割増し買い上げ、各備荒用に貯蔵させるなど様々な施策行ったまた、困窮した民を救済するための「御救普請」も実施しその際人足役仁・義・礼・智・信の5段階分けて扶持米支給している。 定孝は翌元文4年1739年8月8日に「南北武蔵野新田世話役」に任命され上司である上坂指図を受けること、手代格で20扶持給されること、書記など下役2名を召し抱えること、下役の者たちに6両2人扶持ずつを下されること、扶持筆墨紙などの入用与えられることが申し渡される。定孝は各村役人案内人とし、下役2人とともに百姓家を1軒ごとに、その暮し様子細かく調査記録して実態把握指導努めた上坂は、1500両の新田開発料を、年1割の利息農民に金を貸付け、その利金新田開発にあてる公金貸付政策運用したが、定孝はそこに4060両の資金追加して新田経営安定化を図る。 在地密着した働きぶりが認められ大岡の上申により、定孝は翌元文5年1740年4月上坂の下から離れて独自に裁量する権限与えられる。定孝の仕事ぶり将軍徳川吉宗の耳にも達しており、寛保2年1742年8月関東一帯大洪水見舞われた際、吉宗は定孝を指名し被害状況実地見分救済対策立案命じている。この時の洪水影響玉川上水濁りがひどくなったため、同年9月22日に泥の除去作業を行うことが決まり、まず上坂同地見分行った上坂普請費用9000両と見積ったのに対し勘定方役人井沢弥惣兵衛正房は6000両でできると見積もったが、定孝は普請工事をさらに低い4000両で仕上げながら、外見1万両に匹敵する出来ばえだったということで、大岡が定孝への褒美要求したという記録残されている。なお、元文年間には、大岡命じられ玉川上水沿いの小金井桜の植樹行っている。 寛保3年1743年7月上坂政形勘定奉行配下異動して支配地が下総国内に代わったのに伴い支配勘定となった定孝は上坂担当していた3万石の地の支配任される延享2年1745年)、大岡地方御用掛を辞任した際、最後まで大岡配下役人として残った蓑正高と定孝は勘定奉行支配へと移管された。その4年後の寛延2年1749年6月とともに武蔵野新田の支配から退き以後武蔵野新田統治関東郡代伊奈氏によって行われる。 定孝が新田世話役任命された後、押立名主役は弟の川崎平蔵譲られている。平蔵寛保元年1741年)に孝子長五郎孝行ぶりを上坂と兄の定孝に報告し、長五郎褒賞与えられることになった

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大岡支配役人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/10 22:30 UTC 版)

関東地方御用掛」の記事における「大岡支配役人」の解説

大岡地方御用掛を遂行するため、様々な人物配下役人として登用する。それは幕臣限らず在野浪人宿場名主など多様で、特に地方巧者呼ばれる治水灌漑長けた者たちが多かった岩手藤左衛門信猶 - 小普請から登用荻原源八郎乗秀 - 小普請から登用元禄貨幣改鋳行った荻原重秀の子小林平六 - 浪人野村時右衛門 - 浪人田中休愚右衛門古 - 川崎宿名主蓑笠之助正高 - 猿楽師田中休蔵乗 - 田中喜古の子父の死後跡を継ぐ上坂安左衛門政形 - 南町奉行所与力川崎平右衛門定孝 - 武蔵国多摩郡押立名主。 彼らは大岡を「御頭おかしら)」と呼び上坂安左衛門蓑笠之助田中喜乗の3人は、「大岡支配下三代官」と呼ばれ大岡腹心として活躍した。彼らは町奉行大岡所属しており、享保年間には地方御用掛の人件費予算決算書類は町奉行所作成されていた。

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