桜の植樹
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/22 03:35 UTC 版)
1873年(明治6年)の廃城令以降、桑畑と雑草の広がる荒地となっていた。1890年(明治23年)本丸西北にある腰巻櫓の石垣が崩落したことをうけ、津山城跡保存の機運が高まり、1891年(明治24年)には鶴山城址保存会が設立された。城内は国有地、県有地、私有地が混在し、同保存会は官有地拝借による保存を模索したが、許可を得ることができず、公園整備には至らなかった。津山町は用地問題の解決に向け土地の取得を続けるとともに、1899年(明治32年)には県有地が無償で払い下げられる。1899年(明治32年)から1900年(明治33年)にかけて残る一部の私有地についても取得が完了し、1900年(明治33年)春、津山町の管理のもと、鶴山公園が開園した。鶴山公園の開園を機に、整備のあり方を検討する公園委員が津山町議会に組織され、1902年(明治35年)には牡丹桜と染井吉野などが試験的に植樹された。その後、日露戦争の帰還兵が苗を寄付したことを契機として植樹が進み、1915年(大正4年)と1928年(昭和3年)の二度の御大典記念植樹で約2,000本の桜が植樹され、全山が桜で覆われるようになった。これらの植樹にあたっては、1905年(明治38年)に津山町議会に初当選を果たした福井純一が私財を投じるとともに寄付集めを行い、その中心的な役割を担った。
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