荻原乗秀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/12 13:24 UTC 版)
荻原 乗秀(おぎわら のりひで)は、江戸幕府の旗本。通称は源八郎。勘定奉行を務めた荻原重秀の子である[2]。妻は中山下野守直好の娘で、村上彦太郎義愈の娘を後妻に迎えている[3]。
- ^ 『佐渡国略記』では元禄9年(1696年)生まれとなっているが、村井淳史は『寛政重修諸家譜』・『柳営日次記』とも元禄5年に綱吉に御目見したと記載されているため、これを誤りとしている。同様に『佐渡国略記』で享年40とされているのも間違いだと、村井の『勘定奉行荻原重秀の生涯』には記されている。
- ^ 母は「某氏」となっており、重秀の正妻の子ではない。
- ^ a b c d e f g 『新訂 寛政重修諸家譜』第十 143頁
- ^ 本来は代官は勘定奉行に所属するべき役職であるが、大岡は「関東地方御用掛」を兼帯しており、関東の新田開発や治水事業などの農政も掌っていた。なお、当初は北町奉行の中山時春も地方御用掛を拝命しており乗秀は中山の支配下でもあったが、中山が町奉行を辞した後は地方御用掛は大岡1人の専管となる。
- ^ 武蔵国の多摩郡・入間郡・高麗郡・新座郡の4郡82ヵ村(現・東京都中部、埼玉県南部)、石高にして1万石以上の地を管掌。
- ^ a b c 『撰要類集』。
- ^ この一件は、外部の人間により発見されればその罪はさらに重くなっていたが、同じ大岡忠相支配の役人である町奉行所の同心からの告発であったために軽い罪で済んだと『寛政重修諸家譜』に記されている。
- ^ 『佐渡国略記』。
- ^ 『兼山秘策』。
- ^ 享保7年の見分は、浪人2名が、上総・下総の両国に新田開発が可能な土地があると目安箱に投書したことがきっかけで行われたもので、歴史学者の大石学は小林と野村がこの2人の浪人であるという見解を示している。
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