大岡支配代官
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享保7年(1722年)に、代官の池田喜八郎季隆(すえたか)とともに上総・下総国両国の見分に赴くよう命じられた乗秀は、東金(千葉県東金市)に5万石ほどの荒れ地を発見したため、この地が新田として開墾されることが決まる。 同年5月の東金見分に同行した浪人・小林平六と野村時右衛門は元締手代となり、享保12年(1727年)9月に「新田開発方役人」となり武蔵野新田経営を担当する。同14年(1729年)12月に年貢滞納などを理由に2人は罷免される。2人の罷免を受けて、小林と野村が担当していた武蔵野新田と乗秀・岩手を勘定奉行所属とするか、大岡は老中の水野忠之に問い合わせているが、引き続き両名とも大岡支配下とし、新田も2人の支配とする回答されている。この後、乗秀は小林・野村の強引な年貢増徴方針を修正したが、新田経営は十分な安定化は果たせず、年貢未進・遅滞が続いた。 享保17年(1732年)6月12日、武蔵国内の2万石の支配地増加を命ぜられる。 相模国小田原藩の酒匂川は、田中喜古による治水事業がなされた後、川の両岸は岩手の支配地となるが、享保17年(1732年)閏5月に岩手が死去した後、荻原乗秀が同地を預かり、さらに大岡配下の蓑正高の支配へと移る。 享保19年(1734年)正月に乗秀が西城御納戸頭に転任した後は、同じく大岡支配下の代官上坂政形がその支配地を受け継ぐ。
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