武蔵野新田の支配とは? わかりやすく解説

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武蔵野新田の支配

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/01 04:41 UTC 版)

上坂政形」の記事における「武蔵野新田の支配」の解説

享保17年6月代官抜擢され大岡配下として武蔵国内の2万7,040石余と武蔵野新田の支配を命じられる。この時、政形と同じく大岡支配下役人である蓑正高相模国酒匂川流域33,560石余の支配命じられているが、この2人身分低く仕事のために必要な資金準備できないとして大岡老中松平乗邑に金60両の拝借金請願している。政形は、同年死去した大岡支配役人1人代官岩手信猶支配跡地受け継ぎ、さらにその後はこれも大岡支配役人である代官荻原乗秀支配地もあわせて武蔵野新田一手支配することとなる。この年より政形は、新田育成資金として開発料・施設費用御救金などの資金投下公金貸付政策開始する享保19年1734年正月に、荻原乗秀江戸城西丸納戸頭に転任した際、その支配地を含めた武蔵野新田全域の94,000石の支配担当する同年3月2日武蔵国内の43000石余と上総国長柄郡内の370石を支配地に加え、さらに北武蔵野東京都北部埼玉県南部)と上総国東金千葉県東金市)・千町野(せんちょうの、千葉県茂原市)・畑沢野(はたざわ、千葉県木更津市)などの新田支配申し渡される。 享保20年上総国長柄郡千町野の新田検地勘定所役人である御勘定長坂矩貞と共に実施同年3月1日検地赴くためとして松平乗邑より政形は扶持を5割増しされている。 元文元年1736年)、大岡忠相検地奉行として、武蔵野新田検地実施検地長坂矩貞と共同で、政形配下の手代と帳付18名を補佐に、現地農民案内にして行われた元文3年1738年)、新田場を襲った飢饉により、一時期安定化した新田経営一気悪化する。この凶作について吉宗から直々に質問受けた政形は大岡相談し農民救済のためその夜のうちに多摩郡押立出張することとなった押立名主川崎平右衛門が、政形とともに新田農民救援にあたりその手腕を認められて平右衛門は翌4年1739年8月上坂配下の「南北武蔵野新田世話役」に任命される。さらに翌5年1740年)には、平右衛門は独自の裁量権与えられ、政形の下から離れる。平右衛門は政形の公金貸付政策拡大整備して長期的な新田育成資金とし、新田経営安定化助けとした。 『大岡日記』によると元文3年1738年)に大岡忠相配下であった上坂代官所による植林を3ヵ年に渡って実施する件について、7月末日御用御側取次加納久通より許可出たため、大岡8月10日勝手掛老中松平乗邑出費決裁求めたが、乗邑は「聞いていないので書類受け取れない」と処理を一時断っている。この対応は例外的であり、当時御側御用取次実務官僚奉行などと直接調整行って政策決定していたため、この事例は乗邑による、吉宗体制下の老中軽視政治対すささやかな抵抗見られている。 政形は蓑正高田中喜乗とともに大岡支配下三代官」と呼ばれ寺社奉行となった後も関東地方御用掛兼任し続けた大岡配下としてその職務補佐した歴史学者沼田頼輔は、上坂残した後世伝えるべき偉大な業績は、川崎平右衛門登用して多摩入間高麗秩父4郡の開墾事業完成させたことだとしている(同著『大岡越前守』)。

※この「武蔵野新田の支配」の解説は、「上坂政形」の解説の一部です。
「武蔵野新田の支配」を含む「上坂政形」の記事については、「上坂政形」の概要を参照ください。

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