武蔵野新田の支配
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享保17年6月、代官に抜擢され、大岡の配下として武蔵国内の2万7,040石余と武蔵野新田の支配を命じられる。この時、政形と同じく大岡支配下の役人である蓑正高も相模国酒匂川流域3万3,560石余の支配を命じられているが、この2人は身分が低く、仕事のために必要な資金を準備できないとして大岡は老中の松平乗邑に金60両の拝借金を請願している。政形は、同年に死去した大岡支配役人の1人で代官の岩手信猶の支配跡地を受け継ぎ、さらにその後はこれも大岡支配役人である代官・荻原乗秀の支配地もあわせて武蔵野新田を一手に支配することとなる。この年より政形は、新田育成資金として開発料・施設費用・御救金などの資金投下や公金貸付政策を開始する。 享保19年(1734年)正月に、荻原乗秀が江戸城西丸の納戸頭に転任した際、その支配地を含めた武蔵野新田全域の9万4,000石の支配を担当する。同年3月2日、武蔵国内の4万3000石余と上総国長柄郡内の370石を支配地に加え、さらに北武蔵野(東京都北部と埼玉県南部)と上総国東金(千葉県東金市)・千町野(せんちょうの、千葉県茂原市)・畑沢野(はたざわ、千葉県木更津市)などの新田場支配も申し渡される。 享保20年、上総国長柄郡千町野の新田の検地を勘定所役人である御勘定の長坂矩貞と共に実施。同年3月1日、検地に赴くためとして松平乗邑により政形は扶持を5割増しされている。 元文元年(1736年)、大岡忠相を検地奉行として、武蔵野新田の検地を実施。検地は長坂矩貞と共同で、政形配下の手代と帳付各18名を補佐に、現地の農民を案内にして行われた。 元文3年(1738年)、新田場を襲った飢饉により、一時期安定化した新田経営は一気に悪化する。この凶作について吉宗から直々に質問を受けた政形は大岡と相談し、農民救済のためその夜のうちに多摩郡押立村に出張することとなった。押立村の名主・川崎平右衛門が、政形とともに新田農民の救援にあたり、その手腕を認められて平右衛門は翌4年(1739年)8月に上坂配下の「南北武蔵野新田世話役」に任命される。さらに翌5年(1740年)には、平右衛門は独自の裁量権を与えられ、政形の下から離れる。平右衛門は政形の公金貸付政策を拡大・整備して長期的な新田育成資金とし、新田経営の安定化の助けとした。 『大岡日記』によると元文3年(1738年)に大岡忠相配下であった上坂の代官所による栗の植林を3ヵ年に渡って実施する件について、7月末日に御用御側取次の加納久通より許可が出たため、大岡が8月10日に勝手掛老中の松平乗邑に出費の決裁を求めたが、乗邑は「聞いていないので書類は受け取れない」と処理を一時断っている。この対応は例外的であり、当時は御側御用取次が実務官僚の奉行などと直接調整を行って政策を決定していたため、この事例は乗邑による、吉宗体制下の老中軽視の政治に対するささやかな抵抗と見られている。 政形は蓑正高・田中喜乗とともに「大岡支配下の三代官」と呼ばれ、寺社奉行となった後も関東地方御用掛を兼任し続けた大岡の配下としてその職務を補佐した。 歴史学者の沼田頼輔は、上坂が残した後世に伝えるべき偉大な業績は、川崎平右衛門を登用して多摩・入間・高麗・秩父4郡の開墾事業を完成させたことだとしている(同著『大岡越前守』)。
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