上坂政形
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上坂 政形(うえさか まさかた、元禄9年(1696年) - 宝暦9年4月5日(1759年5月1日))は、江戸幕府の与力、旗本。通称は安左衛門。
- ^ 享保14年当時の南町奉行所は、所属する与力・同心たちは5つの組に分けられ、政形は4番組の与力の1人。各組、与力4-5名、同心年寄4名、同心物書き2-3名、同心13-4名、計122名となっている(享保15年刊行『万世町鑑全(ばんせいまちかがみぜん)』)。
- ^ a b c 『新訂 寛政重修諸家譜』第二十 236頁
- ^ 全318坪のうち118坪は手代の家屋などを置く拝領地とされている。
- ^ 後の公事方御定書編纂の起点となった、町方の仕置(処罰)の概要を記した法令集。百姓・町人の仕置の大概をまとめたものであり、これに洩れたものは都度書き加え、その他地方に関する仕置は除外したと末尾に記されている。
- ^ 享保元年から元文元年までの町触や評定所一座の評議などの諸法令を、立法過程をも含めて編纂した法令集。続群書類集完成会刊、国立公文書館内閣文庫所蔵。
- ^ 南町奉行所の1番組の与力。
- ^ 明の洪武帝が発布した教訓の解説書。
- ^ 『撰要類集』第一の奥書より。
- ^ 『撰要類集』の記述では2万7,280石余。
- ^ a b c 『撰要類集』。
- ^ 勘定所から渡された1500両を年利1割で農民へ貸し付け、その利息(150両)を毎年新田農民へ支給した。
- ^ この時に同行した政形の手代たちは、翌年の武蔵野新田検地にも携わっている。
- ^ この人事が決められた際、平右衛門には存分に腕を振るうことを認める一方、政形を解任するにはおよばない旨、吉宗からの指示が大岡に対して出されている。
- ^ 深井雅海「江戸幕府御側御用取次の基礎的研究」1983年5月(『国史学 第120号』)
- ^ 大岡家文書刊行会編『大岡越前守忠相日記』上巻16頁。
- ^ 渡辺紀彦『代官川崎平右衛門の事績』16頁。
- ^ 支配地は上総・安房・下総へと変更。大岡の要求により、6000石増加して計10万石となる。
- ^ 『大岡越前守忠相日記』中巻、98頁。
- ^ 山林野原など石高がついていない土地。
- ^ a b c 『松平左近将監風説集』(国立公文書館内閣文庫所蔵)。
- ^ 『大岡越前守忠相日記』。
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