その他の事績
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そのほかテリピヌはフルリ人と戦ってカルケミシュの北側を征服し、シリアへの途次にあたる南の隣国キズワトナ(英語版)への遠征を行った。テリピヌはその王イシュプタフシュ(英語版)と同盟条約を結んだが、これは現存するヒッタイト最古の同盟条約である。ただし条文は部分的にしか残っていない。ハッシュワ、ラワツァンティヤ、ツィッツィリッパなどの都市もヒッタイトの影響下に入った。彼の即位時には先祖のハットゥシリ1世やムルシリ1世による遠征で得られた地はほとんど失われていたが、一部を回復することが出来た。 テリピヌの晩年はよく分かっていない。後継者に指名したのは娘婿のアルワムナだったが、実際に即位したのはタフルワイリだったといわれる。後者は上記の「金の槍持ち」タフルワイリと同一人物と思われ、アルワムナはタフルワイリを倒した後に即位できたとみられる。結局テリピヌの後も王位をめぐる争いは止まなかったのである。テリピヌののち、混乱状態になるためか文字史料はきわめて乏しくなる。ヒッタイト史を古王国・新王国と二分する時代区分法と、古・中・新の三期に分ける時代区分法があるが、三期区分の場合は割合事績のはっきりしているテリピヌを以って古王国時代最後の王としている。
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その他の事績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 15:20 UTC 版)
その後ムワタリはシリア地方での動乱に即応する体制を整えるために、首都をシリア地方により近い南方のタルフンタッサ(英語版)に遷した。ただしタルフンタッサへの遷都は、旧都ハットゥシャが北方のカシュカ(英語版)に近すぎてたびたび攻撃を受けていたのを嫌ったためともされる。ハットゥシャの総督には弟のハットゥシリを任命した。彼はムワタリ2世の治世中にカシュカ族からトゥドハリヤ1世の時代に奪われていたネリク(英語版)までの土地を征服した。またムワタリが西方のアルザワ(英語版)の一都市であるウィルサ(英語版)の王アラクサンドゥ(英語版)と結んだ条約の写しが発見されている。そのほかアダナ近郊のシルケリ・ヒュユク(ドイツ語版)では彼の名が刻まれた摩崖碑文が発見されているが、こうした屋外のヒッタイト碑文としては最古の例とされる。 ムワタリが死んだ時、不和だった王妃との間に息子がおらず、古いヒッタイトの継承法に基づいて庶子のムルシリ3世(フルリ語:ウルヒ・テシュプ)が王位を継いだ。
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その他の事績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/27 23:54 UTC 版)
正高は、「元より才智ある者なり」と言われ、『徳川実紀』にも「稼穡(かしょく、農事・租税)」を好み「水理(水利)」をよく弁え「勧農の事かしこく沙汰せし」と、その地方巧者ぶりが記されている。将軍徳川吉宗からは岡田庄大夫俊惟(としただ)・青木次郎九郎安清(やすきよ)・上坂政形とともに「よろしき御代官」の1人として評価されると同時に、上坂や田中喜乗とともに「大岡支配下の三代官」とも称され、その腹心として大岡と頻繁にやり取りをした記録が残されている。 大岡支配下の役人として働き始めた当初は御家人身分であったが、大岡の尽力により元文2年(1737年)1月2日の年始御礼のときに初めて将軍との御目見えを果たす。また、大岡は元文元年(1736年)4月9日から正高と田中善乗を昇進させる請願を繰り返しており、元文4年(1739年)2月に2人の正式な代官就任が決定した。 寛保元年(1741年)の11月19日に、支配所の相模国津久井県の村役人4名を、村方火災後の自力復興に尽力したことで褒賞し、大岡も改めてこれを賞している。 元文2年(1737年)に、村役人への自覚を求めた農政書『農家貫行』を吉宗に献上。備荒作物として薏苡仁(よくいにん、はと麦)の栽培を奨励しており、相模国足柄郡では享保19年に薏苡仁蒔付量の調査を実施している。
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