奈良県との関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 15:01 UTC 版)
明治9年(1876年)4月18日に奈良県が堺県に編入され、明治14年(1881年)2月7日に堺県が大阪府に編入されたが、地元の有志らにより大阪府からの分離独立を求める奈良県分置運動がおこると、当時元老院議官であった税所は、この運動に対し好意と理解を示し(元々税所は大阪府への併合に反対であった、その旨はすでに大久保宛て書簡に記述している)、運動の推進者らに助言を与え、彼らの意を汲んで長州閥の政府高官に上申するなど、奈良県の成立に深く関わった。明治20年(1887年)12月1日に新生奈良県が発足すると、新任の郡長平田好は寄付金公募による公園の整備を進めるとともに県知事税所篤に奈良公園の拡張を上申した(ただ、発案者は税所本人であり、平田からの上申は形式的なものであった)。これを容れた税所は明治21年(1888年)、公園地の拡張を政府に申請、内務大臣山縣有朋と農商務大臣井上馨の連名で認可された。この結果、公園拡張が行われ、明治13年(1880年)時で14ヘクタールであった公園の面積は、明治22年(1889年)には、東大寺境内、春日野、若草山などの山間部を編入し、面積は535ヘクタールとなり、これが今日の奈良公園のアウトラインとなった(税所も自身が所有していた山林、雑司村領惣持院山を寄付している)。奈良県知事時代におけるその他の事績としては、神武天皇を祀るために橿原神宮の造営を奏請、私費を投じての吉野山への大規模な桜の栽植、廃仏毀釈により破壊された興福寺の再興、十津川大水害被災民らの北海道入植事業などがある(北海道の新十津川町では毎年6月20日に開町記念式典が開かれているが、十津川村からの移住の際に知事であった税所から贈られた告諭を読むのがならわしとなっている)。政治家としての税所は一貫して、天皇家の権威高揚および京都・奈良等における伝統文化の保護育成に重点を置いていた。税所は古物、美術品に精通しており文人・知識人との交流も盛んで、堺県令時代には大鳥大社の大宮司に富岡鉄斎を推薦し、奈良県知事時代の1888年6月には法隆寺宝物調査の途次であったフェノロサを淨教寺の本堂に招いて講演を依頼(演題『奈良ノ諸君ニ告グ』)するなど、文化振興的な政策・活動に非常に熱心であった。 のちに宮中顧問官、枢密顧問官を務めた。明治20年(1887年)5月24日、維新の功により子爵を授けられる。明治43年(1910年)6月21日死去。享年84。
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