享保17年 - 元文元年
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「関東地方御用掛」の記事における「享保17年 - 元文元年」の解説
享保17年閏5月2日、代官の岩手信猶が死去。同年6月に南町奉行所与力・上坂政形が代官に就任、武蔵国内2万7280石余と武蔵野新田場の支配を担当する。同時に荻原の武蔵国内の支配地を2万石加増、享保15年に父の跡を継いだ田中喜古の武蔵国内の支配地を5000石加増と決まる。上坂は、施設費用・御救金の投入の他、年1割の利息で農民に貸付け、その利金を新田開発にあてる公金貸付政策を導入など、資金の投入により新田の安定的な経営を目指す。 元文元年、上坂は勘定所役人の長坂䂓貞とともに新田場検地を実施。手代や帳付といった検地担当者の集団を8組結成し、大岡忠相を検地奉行として、広範囲にわたって検地が行われた。この検地は、未開発地や松林や芝地などにも年貢が賦課される、年貢増徴の側面を持つものであった。
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