鉄一文銭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 07:30 UTC 版)
元文4年(1738年)には銭相場の高値是正および材料の銅の供給不足などから、江戸深川十万坪、仙台石巻、江戸本所押上などの銭座で鉄一文銭の鋳造が始まり、さらに明和2年(1765年)から金座監督の下、江戸亀戸、明和4年(1767年)から京都伏見、明和5年(1768年)からは仙台石巻(「千」字)、常陸太田(「久、久二」字)などの銭座で鉄一文銭が大量に鋳造され、銭相場は下落し安永7年(1778年)頃には一両=6000文前後を付けるに至った。 鉄銭は鍋銭(なべせん)とも呼ばれ製作も悪く不評であった。伏見鉄銭以降の鉄銭について「コレヨリ後出ル所ノ鉄銭皆其質悪シ、茶碗ノ欠ヲ入ルコトハ、寶永ノ大銭ヨリ初マリ、土ヲ入ル事ハ此銭ヨリ初ルトイヘリ」、さらに「故ニカネノ音ハナシ」と揶揄されるほどであった。中世には私鋳銭などの粗悪な銭貨を指した「鐚銭」の語も、この時代には鉄一文銭の俗称となったという。 天保6年(1835年)12月より天保通寳と同時に江戸深川で鋳造された鉄銭は洲崎銭と呼ばれたが、天保通寳が広く流通したため58,100貫271文(58,100,271枚)と小額にとどまった。 日米修好通商条約において日本の銅銭輸出の禁止が明文化されていたが、日本国内では洋銀1ドル=銅銭4,976文替の相場であったのに対し、中国では800〜1,000文であったため、安政6年(1859年)の開港に伴い、外商らは競って日本の銅銭を中国に輸出した。これに対抗して幕府は銅一文銭を回収し、銅一文銭一貫文に対し鉄一文銭および天保通寳を差交えて一貫五百四十八文と引換え、四十八文は両替屋に手数料として与えた。このときの引き換え用に安政6年(1859年)9月より小菅において鉄一文銭520,000貫文(520,000,000枚)が吹立てられた。 安政年間には、鉄一文銭の鋳造に4文の費用がかかっていたが、幕府は四文銭・天保銭の流通を維持するために損害承知の上でこれを鋳造し続けた。目的は異なるが、今日の一円アルミ貨も同様に額面を超える製造費用がかかっている。 鉄一文銭の総鋳造高は明治時代の大蔵省による流通高の調査により、6,332,619,404枚とされ、中でも明和年間以降の鋳造高が特に多く、亀戸では2,262,589貫文(2,262,589,000枚)、伏見1,422,782貫文(1,422,782,000枚)、常陸太田690,500貫文(690,500,000枚)などとなっている。 鉄一文銭・元文~安政年間鋳造寛永通寳元文4年(1739年)元文期中島加島村銭 寛永通寳明和2年(1765年)明和期伏見銭 寛永通寳明和2年(1765年)明和期亀戸銭 寛永通寳明和5年(1768年)明和期太田銭久 寛永通寳明和5年(1768年)明和期石巻銭千 寛永通寳安永3年(1774年)安永期太田銭久二 寛永通寳天保6年(1835年)天保期洲崎銭十字寛 寛永通寳安政6年(1859年)安政期小菅銭
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