明治以降における寛永通宝銅一文銭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 06:58 UTC 版)
「一厘硬貨」の記事における「明治以降における寛永通宝銅一文銭」の解説
寛永通宝銅一文銭は、江戸時代には1文として通用したが、明治の新銅貨の製造が金銀貨に比べて遅れたこともあり、1871年(明治4年)に太政官布告により新貨の単位(円・銭・厘)による通用価値が定められ、1厘通用となった。江戸時代の他の銭貨についても、寛永通宝真鍮四文銭:2厘、寛永通宝鉄一文銭:1/16厘、寛永通宝鉄四文銭:1/8厘、天保通宝:8厘、文久永宝:1厘5毛と定められた。前述のように、明治時代には造幣局による一厘銅貨の製造・発行枚数があまり多くなく、その直径が小さすぎるため1884年(明治17年)に製造が中止されたこともあり、1厘単位の貨幣としてはむしろ寛永通宝銅一文銭が主流として流通していた。 1897年(明治30年)頃より次第に流通が減少し、1912年(明治45年)頃には厘位の代償としてマッチや紙などの日用品を用いるようになり、1916年(大正5年)4月1日には租税及び公課には厘位を切捨てることとなり、一般商取引もこれに準じたため不用の銭貨となった。寛永通宝が一般にほとんど使用されなくなった大正期や昭和初期でも、銀行間決済の最小単位の通貨として用いられることがあったという。江戸時代の寛永年間の鋳造開始から1953年(昭和28年)の小額通貨整理法による通用停止に至るまで、正式には300年以上にわたって通貨として有効だったことになる。
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