明治以後の日置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 01:48 UTC 版)
明治4年に廃藩置県が行われ薩摩藩の統治区域である薩摩国、大隅国の区域に鹿児島県が設置された。1873年(明治6年)には大区小区制が敷かれ、日置は第十二大区となり、他の田布施、伊作、永吉、吉利と共に伊作の区長事務扱所に属した。1878年(明治11年)には郡区町村編制法の施行に伴い、日置村には御仮屋跡地に戸長役場が設置された。 1889年(明治22年)には町村制が施行されたのに伴い、日置郷を構成していた日置村と山田村の区域を以て日置郡日置村が設置された。また日置村役場が置かれ、同時に江戸時代の日置村は日置村の大字「日置」となった。 1953年(昭和28年)に公布された町村合併促進法によって、狭小な町村の合併が促進されることとなり、面積が狭く人口が8,000人以下の町村は合併すべき規模とされた。直近に実施された1950年(昭和25年)の国勢調査では日置村(大字日置、大字山田)の人口は9,672人であった。当初の構想では日置村と吉利村、永吉村の一部の合併が理想的であると鹿児島県地方課も考えていたとみられるが、永吉村は伊作町と合併することとなったため、日置村は吉利村との対等合併の形を取ることとなった。1955年(昭和30年)2月9日に日置村議会において合併に関する議決を全会一致で可決し、合併申請書が提出された。1955年(昭和30年)4月1日には日置村が吉利村と合併したことにより日吉町が成立した。それに伴って大字日置は日吉町の大字となった。また新たに設置された日吉町の役場は大字日置の旧日置村役場の場所に設置された。 2000年(平成12年)に日置字六枝及び井神の各一部が吉利字石町の一部となり、吉利字六枝、春日、瀬戸口及び井神の各一部が吉利字南天牟田の一部となった。 2005年(平成17年)5月1日に日吉町が伊集院町、吹上町、東市来町と合併し日置市が成立した。この合併に先立って設置された法定合併協議会である「日置中央合併協議会」において大字名については「字の区域は、現行どおりとし、現行の字の名称の前に当該字の属する合併前の町の名称を付し、字の名称を変更する。」と協定され、旧町名である「日吉町」を従前の大字名である「日置」に冠することとなった。合併日の2005年(平成17年)5月1日に鹿児島県の告示である「 字の名称の変更」が鹿児島県公報に掲載された。この告示の規定に基づき即日大字の名称変更が行われ、大字名が「日置」から日置市の大字「日吉町日置」に改称された。
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