江戸時代の日置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 01:48 UTC 版)
江戸時代には薩摩国日置郡日置郷(外城)のうちであった。村高は「天保郷帳」では3,287石余、「三州御治世要覧」では2,959石余、「旧高旧領取調帳」では2,875石余であった。日置郷は万治4年に薩摩藩の直轄領となったものの、延宝8年に再び日置島津家が日置郷を私領として統治した。 享保12年(1727年)には吉利郷(現在の日吉町吉利)と日置郷の間に境界論争が発生した。組頭を始めとする郷の役人と門の代表者24名により協議が行われ、翌年に決着をみた。元文2年(1737年)には紙漉の荒野を開拓し、水田が開墾された。日置村は農民1,255人、漁民140人であることから農業中心の地域であったと考えられる。 鎮守は日置郷惣社の八幡神社で「地理纂考」によると伊集院郷谷口村(現在の伊集院町下谷口及び鹿児島市上谷口町にあたる)より移したとみられ新田八幡を勧誘したものである。八幡神社が移転する前は刀立神社が鎮守であったとされる。 江戸時代後期に薩摩藩が編纂した地誌である「三国名勝図会」には日置村の八幡宮(現在の八幡神社)について以下のとおり記載されている(旧字体は新字体に、合略仮名・変体仮名はかなに改めた)。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}日置村にあり、奉祀天照大神、天津彦々火瓊々杵尊、栳幡千々姫命の三坐、按るに水引八幡新田宮を勧請せしなるべし、祭神彼宮と同じければなり、九月十五日を正祭とし、竹偶人を作り、四輪車に乗せ、里童をして前路を馳せしむ、又五月六日に祭りあり、土俗及び隣郷より踊を興行すること数隊なり、既にして、神輿を田原へ護り行くの旧式あり、文禄四年、島津下総守常久、当邑に封ぜられ、当社を以て(※字不明)邑の総鎮守と尊恭せり、是より村民亦一入の崇敬を致す、社司原口氏の傳に云、初め隣邑伊集院谷口善福寺の邊にありしを、此処に遷鎮せりと、 —三国名勝図会巻之九
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