明治以後の彰考館とは? わかりやすく解説

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明治以後の彰考館

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/29 08:00 UTC 版)

彰考館」の記事における「明治以後の彰考館」の解説

幕末水戸藩動乱には、彰考館史館員も多く巻き込まれた。明治維新により彰考館廃止になるかとの噂も流れたが、『大日本史』の編纂事業水戸徳川家事業として続けられることとなり、偕楽園移され上で組織縮小しつつ継続された。明治期著名な編修員は栗田寛である。明治39年1906年)、『大日本史』が完成し彰考館事業終わり迎える。 明治40年1907年)、明治天皇から「書物保存役立てるように」と金1万円下賜があり、明治42年1909年)には皇后昭憲皇太后)からも3千円下賜があった。これらの下賜受けて明治43年1910年)、彰考館所蔵し史料文献現在の常磐神社義烈館のあたりに収められ彰考館文庫として保存された。 昭和20年1945年8月水戸空襲により彰考館文庫焼け落ち彰考館所蔵史料はその大部分が灰となった。しかし、あらかじめ避難させていた5分の1程度史料残り茨城県水戸市にある彰考館徳川博物館内の彰考館文庫引き継がれており、光圀揮毫扁額なども所蔵されている。昭和42年1967年財団法人水府明徳会結成され徳川家から家宝土地建物寄贈受けた昭和45年1970年博物館法により「彰考館」として登録された。 水戸市立第二中学校前の跡地が、平成27年2015年4月24日文化庁より日本遺産近世日本教育遺産 学ぶ心・礼節本源」のストーリー構成する水戸市内の文化財一つとなることが発表された。

※この「明治以後の彰考館」の解説は、「彰考館」の解説の一部です。
「明治以後の彰考館」を含む「彰考館」の記事については、「彰考館」の概要を参照ください。

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