明治以後の彰考館
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幕末の水戸藩の動乱には、彰考館の史館員も多く巻き込まれた。明治維新により彰考館も廃止になるかとの噂も流れたが、『大日本史』の編纂事業が水戸徳川家の事業として続けられることとなり、偕楽園に移された上で、組織を縮小しつつ継続された。明治期の著名な編修員は栗田寛である。明治39年(1906年)、『大日本史』が完成し、彰考館の事業は終わりを迎える。 明治40年(1907年)、明治天皇から「書物保存に役立てるように」と金1万円の下賜があり、明治42年(1909年)には皇后(昭憲皇太后)からも3千円の下賜があった。これらの下賜を受けて、明治43年(1910年)、彰考館の所蔵した史料や文献が現在の常磐神社の義烈館のあたりに収められ、彰考館文庫として保存された。 昭和20年(1945年)8月、水戸空襲により彰考館文庫は焼け落ち、彰考館所蔵史料はその大部分が灰となった。しかし、あらかじめ避難させていた5分の1程度の史料が残り、茨城県水戸市にある彰考館徳川博物館内の彰考館文庫に引き継がれており、光圀揮毫の扁額なども所蔵されている。昭和42年(1967年)財団法人水府明徳会が結成され、徳川家から家宝と土地建物の寄贈を受けた。昭和45年(1970年)博物館法により「彰考館」として登録された。 水戸市立第二中学校前の跡地が、平成27年(2015年)4月24日に文化庁より日本遺産「近世日本の教育遺産 学ぶ心・礼節の本源」のストーリーを構成する水戸市内の文化財の一つとなることが発表された。
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