真鍮にまつわる信仰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 01:04 UTC 版)
「広徳寺 (甲賀市)」の記事における「真鍮にまつわる信仰」の解説
真鍮の始祖に関する伝承が伝わっている。麓の山上村の藤左衛門は貧農で生計が苦しく、本尊の青面金剛尊に深く帰依し、1593年(文禄2年)正月に広徳寺に籠り祈願をしたところ、満月の夜、銅に亜鉛を混ぜる合金の法を伝授され、1599年(慶長4年)に京都で試して真鍮の合金に成功したと伝わる。金の代用品や装飾品として、それまでは純金もしくは銅や青銅に金をメッキしていたが、メッキの剥落や変色、銅から緑青が出ることもなく、幅広く使われるようになり、画期的な製法であった。ただし、自力で開発したのではなく、大陸から伝わった製法を改良したと推測されている。 この出世譚にあやかろうと、江戸時代には「真鍮元祖」「真鍮祖神」として江戸、京都、大坂の三都の金物屋から信仰されてきた。1851年(嘉永4年)には三都金物屋中が山麓周辺に多数の石造道標を建立した。とくに牛飼地先の国道307号沿いにある「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の像がついた道標が有名で、これは紀伊国屋三谷家の8代目長三郎が発起し京都の問屋5人が世話人として建てたものである。100以上の玉垣が寄進され、当時の全国の真鍮関係者がほぼ網羅されているという。中でも最も玉垣が多かったのは前述の紀伊国屋三谷家で、関係者を含めると9つあり、その他、常夜燈の寄進などもしている。大正期からは大阪の真鍮関係者からの支援が盛んになり、庚申講を母体とする大阪の黄銅組合の組合長、4代目坂根武兵衛が1922年(大正11年)に全国の真鍮業者に呼び掛けて山上庚申堂保存会を結成し、記念事業の開催と藤左衛門の銅像を建立した。なお、この銅像は戦時中に供出されたが戦後に再建されている。
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