近世日本における灰吹銀の流通
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 04:20 UTC 版)
「灰吹銀」の記事における「近世日本における灰吹銀の流通」の解説
天文2年(1533年)、 石見国の石見銀山で初めて導入される。やがて蒲生銀山、生野銀山、多田銀山、院内銀山など各地の銀山に灰吹法が導入され産銀は著しく増大し江戸時代初期に最盛期を迎える。また佐渡金山も金よりも寧ろ銀を多く産出した。産銀の増大により江戸時代前半に掛けて、ソーマ銀(佐摩、石見)、ナギト銀(長門)、セダ銀(佐渡)等といわれる灰吹銀が貿易決済のため多量に国外へ流出し、幕府は長崎において良質灰吹銀の輸出を監視したが、17世紀の間に丁銀を合わせて110万貫(4,100トン)を超える銀が流出したという。 地名、稼敷などの極印が打たれた灰吹銀、また灰吹銀を打ち延ばした銀判は、それぞれ極印銀(極印灰吹銀)および古丁銀と呼ばれる秤量銀貨として流通し、領国貨幣として江戸時代の丁銀の原型となった。しかし灰吹銀の品位は産地により様々であったため全国的な秤量貨幣としての流通の発展は望めず、寛文年間から元禄の吹替え頃までに漸次丁銀遣いに切り替えられていった。中国においても灰吹法により製錬された銀は銀錠と呼ばれる銀塊に鋳造され、やはり秤量貨幣として広く流通した。 各地銀山の産銀は銀座に集積され丁銀の材料とされたが、銀座による銀地金の調達法には二通りあり、幕領銀山からの上納灰吹銀は公儀灰吹銀(こうぎはいふきぎん)または御灰吹銀(おはいふきぎん)と呼び、これを御金蔵から預り吹元にして丁銀を鋳造し吹立高の3%を銀座の収入とし、残りを御金蔵へ上納した御用達形式があり、他方、銀座が幕領以外の銀山、私領銀山から諸国灰吹銀を買入れ、丁銀を鋳造する自家営業方式は買灰吹銀(かいはいふきぎん)と称した。
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