近世日朝外交の窓口
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 14:36 UTC 版)
朝鮮時代後期(江戸時代)、東萊府は釜山の倭館を管轄し、対馬藩との交渉にあたった。江戸幕府と朝鮮王朝の間に常設の外交機関がない時代において、日本海の漂流民の送還業務や、領土問題を巡る交渉(竹島一件)などは、東萊府と対馬藩を介して行われている。 日本で明治政府が誕生した後、東萊府は引き続き日朝外交の舞台となったが、1868年に対馬藩を介した文書を東萊府使が拒否して以来交渉は難航した(書契問題)。1872年には日本外務省が倭館に公使を派遣し、倭館を公使館として接収。進展しない外交交渉に対して、1875年に武力による開国強制が行われ(江華島事件)、1876年に日朝修好条規が締結された。これにより公使は漢城に置かれることとなり、東萊府は外交の主舞台としての役割を終えた。 江華島事件・日朝修好条規も参照のこと。
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