対馬藩との交渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 19:45 UTC 版)
「ロシア軍艦対馬占領事件」の記事における「対馬藩との交渉」の解説
対馬藩内では対応を巡って、武力での排撃を主張する攘夷派と紛争を避けようとする穏健派で論争が起こり藩内は混乱した。宗義和は事を荒立てず穏便に解決しようと接しながらも、問状使をポサドニック号に派遣し、その不法を何度か詰問した。しかしロシア側は無回答を貫き、優勢な武力をもって日本側を脅かしたり、住民を懐柔したりし、木材・牛馬・食糧・薪炭を強奪または買収して滞留の準備を整えた。またロシア水兵は短艇を操って沿岸を測量し、山野を歩き回って野獣を捕獲したり、中には婦女を追跡して脅かす水兵もいたため、住民は激昂し、しばしば紛争が起こった。 ビリリョフ艦長は対馬藩に対し藩主への面会を再三要求し、3月23日には芋崎の租借を求めて来た。ロシア側としては強引に対馬藩に租借を承諾させ、これを既成事実として幕府に認めさせる思惑であった。対馬藩では対応に苦慮し、面会要求を拒否しつつ、長崎と江戸に急使を派遣して幕府の指示を仰いだ。 4月12日、ロシア兵が短艇に乗り大船越の水門を通過しようとしたのを対馬藩の警備兵が制止すると、ロシア兵は警備兵・松村安五郎を射殺、さらに郷士2名を捕虜として拉致し、軍艦に連行した。内1名(吉野数之助)は舌を噛み切って自殺した。ロシア軍の暴挙はこれに留まらず、番所を襲撃して武器を強奪し、数人の住民を拉致し、7頭の牛を奪って帰船。さらに翌日には水兵100余人を派して大船越の村で略奪を行った。 宗義和はポサドニック号に速やかに退去することを要求しながらも、米・塩・薪炭を贈り、懐柔を図った。紛争を避けるため、藩内士民には軽挙を戒める一方で、密かに沿岸に砲台を築造し、事態に備えた。また、宗氏の所領の肥前田代では代官平田平八が手兵を率いて対馬に渡り、ロシア兵を討つ気勢を示した。
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