対馬府中藩の成立とは? わかりやすく解説

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対馬府中藩の成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 22:48 UTC 版)

対馬府中藩」の記事における「対馬府中藩の成立」の解説

1587年天正15年)、豊臣秀吉の九州平定に際して宗氏事前に豊臣政権への臣従決め本領安堵された。1590年天正18年)には、宗義智従四位下侍従・対馬守に任ぜられ、以後宗氏当主与えられる官位慣例となった秀吉朝鮮出兵文禄・慶長の役)では、出兵先立つ1591年天正19年)、厳原には古代金石城背後清水山城が、上対馬大浦には撃方山城築かれ中継基地となった対馬からは宗義智が5,000人を動員した。義智率い対馬勢は一番隊から九番隊に編成され派遣軍のなかでも最先部隊にあたる小西行長一番隊配属された。義智は、戦闘だけでなく行長とともに日本側の外交担っており、常に2人講和画策していたという。30軍隊がここを中継地として渡海したため対馬ではたちまち食糧が底をつき、駐留する兵士鶏・犬などを住民から奪う禁令出されたという。義智は、1600年慶長5年)の関ヶ原の戦いでは西軍加わって、みずからは伏見城攻撃参加し大津城攻め関ヶ原本戦では家臣派遣して陣した西軍敗北後徳川家康から許され以後代々徳川氏臣属し、李氏朝鮮対す外交窓口としての役割を担うこととなった1609年慶長14年)には己酉約条慶長条約)が締結され釜山には倭館再建された。倭館は、長崎出島25倍におよぶ約10万坪の土地設けられ500人から1,000人におよぶ対馬藩士・対馬島民が居留して貿易が行われた。 第2代藩主宗義成の代には、1615年元和元年)に大坂の陣徳川方として参加したその後義成対馬藩家老柳川調興とのあいだに柳川一件起こっているが、1635年寛永12年)、第3代将軍・徳川家光によって裁可され、調興敗となった1637年寛永14年)から翌年にかけては島原の乱幕府側として参加した佐須鉱山を再掘したのも義成時代であった対馬府中藩は、参勤交代制に基づき3年1度江戸征夷大将軍出仕することとされ、江戸藩邸構え厳原との間を藩主自らが大勢家臣率い盛大な大名行列仕立てて往来した

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