対馬要塞司令部の時代とは? わかりやすく解説

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対馬要塞司令部の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/29 14:41 UTC 版)

対馬要塞」の記事における「対馬要塞司令部の時代」の解説

1920年大正9年)に対馬警備隊司令部対馬要塞司令部改められ司令部厳原置かれた。対馬警備歩兵大隊廃止になり、対馬重砲大隊鶏知重砲兵大隊となった重砲大隊は3個中隊の編制であったが、1922年大正11年)に1個中隊を減じた日露戦争後対馬要塞整備はしばらく行われなかったが、1924年大正13年9月の竜ノ崎第1砲台着工皮切りに再び砲台新設が行われるようになる。従来砲台射程距離短く口径が最も大き28センチりゅう弾砲でも射程はわずか7800メートルであった要塞役割港湾防衛限定されていた。しかし、竜ノ崎第1砲台以降建設され比較新し砲台一部砲台には海軍から移管された戦艦主砲用の大口径砲設置された)は射程距離長く対馬周辺海域航行する敵艦艇への攻撃や、壱岐要塞との連携による対馬海峡制圧可能になった。この時期建設され砲台のうち、特筆すべき対馬北端の豊砲台である。豊砲台にはワシントン海軍軍縮条約によって建造中止され戦艦土佐」の主砲塔転用し40センチカノン砲が設置されたが、この砲は日本軍要塞運用され最大の砲だった。また、新たな砲台設置に伴い初期砲台一部除いて廃止除籍されている。 1936年昭和11年)に、鶏知重砲兵大隊は2個中隊のまま鶏知重砲兵連隊となった1939年昭和14年)には、対馬要塞司令部鶏知重砲兵連隊配置されていた。11月10日時点人員戦闘員452名(定員対する不足76人)、非戦闘員69名(定員対する不足1人)で、他に馬11頭がいた。非戦闘員のうち20名は陸軍病院勤務していた。 1941年昭和16年7月関東軍特種演習関特演)にともなう動員令が出され対馬要塞部隊戦時編制移行した鶏知重砲兵連隊対馬要塞重砲兵連隊となって兵力を数倍に増し平時休眠状態だった各砲台部隊配備した対馬要塞防空隊(2個中隊)と、第66要塞歩兵隊(4個中隊)も編成された。この態勢12月太平洋戦争突入した。 第66要塞歩兵隊は、1943年昭和18年9月28日に、復帰解散)した。 戦争中対馬付近に潜水艦出没して日本貨物船攻撃したが、対馬要塞対す攻撃はなかった。対馬海峡防衛拠点として日本本土沿岸要塞中でも重要なものとしてみなされていた対馬要塞であったが、結局本格的な戦闘一度経験することなく1945年8月敗戦迎え年内部隊復員解散)した。

※この「対馬要塞司令部の時代」の解説は、「対馬要塞」の解説の一部です。
「対馬要塞司令部の時代」を含む「対馬要塞」の記事については、「対馬要塞」の概要を参照ください。

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