対馬要塞司令部の時代
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1920年(大正9年)に対馬警備隊司令部は対馬要塞司令部に改められ、司令部は厳原に置かれた。対馬警備歩兵大隊は廃止になり、対馬重砲兵大隊は鶏知重砲兵大隊となった。重砲兵大隊は3個中隊の編制であったが、1922年(大正11年)に1個中隊を減じた。 日露戦争後、対馬要塞の整備はしばらく行われなかったが、1924年(大正13年)9月の竜ノ崎第1砲台着工を皮切りに再び砲台の新設が行われるようになる。従来の砲台は射程距離が短く(口径が最も大きい28センチりゅう弾砲でも射程はわずか7800メートルであった)要塞の役割は港湾の防衛に限定されていた。しかし、竜ノ崎第1砲台以降に建設された比較的新しい砲台(一部の砲台には海軍から移管された戦艦主砲用の大口径砲が設置された)は射程距離が長く、対馬周辺の海域を航行する敵艦艇への攻撃や、壱岐要塞との連携による対馬海峡の制圧が可能になった。この時期に建設された砲台のうち、特筆すべきは対馬北端の豊砲台である。豊砲台にはワシントン海軍軍縮条約によって建造が中止された戦艦「土佐」の主砲塔を転用した40センチカノン砲が設置されたが、この砲は日本軍の要塞で運用された最大の砲だった。また、新たな砲台の設置に伴い、初期の砲台は一部を除いて廃止・除籍されている。 1936年(昭和11年)に、鶏知重砲兵大隊は2個中隊のまま鶏知重砲兵連隊となった。 1939年(昭和14年)には、対馬要塞司令部と鶏知重砲兵連隊が配置されていた。11月10日の時点の人員は戦闘員452名(定員に対する不足76人)、非戦闘員69名(定員に対する不足1人)で、他に馬11頭がいた。非戦闘員のうち20名は鶏知陸軍病院に勤務していた。 1941年(昭和16年)7月、関東軍特種演習(関特演)にともなう動員令が出され、対馬要塞の部隊は戦時編制に移行した。鶏知重砲兵連隊は対馬要塞重砲兵連隊となって兵力を数倍に増し、平時に休眠状態だった各砲台に部隊を配備した。対馬要塞防空隊(2個中隊)と、第66要塞歩兵隊(4個中隊)も編成された。この態勢で12月に太平洋戦争に突入した。 第66要塞歩兵隊は、1943年(昭和18年)9月28日に、復帰(解散)した。 戦争中、対馬付近には潜水艦が出没して日本の貨物船を攻撃したが、対馬要塞に対する攻撃はなかった。対馬海峡の防衛拠点として日本本土の沿岸要塞の中でも重要なものとしてみなされていた対馬要塞であったが、結局本格的な戦闘は一度も経験することなく1945年8月に敗戦を迎え、年内に部隊は復員(解散)した。
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