対馬府中藩の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 22:48 UTC 版)
1869年(明治2年)、宗義達は版籍を奉還し、新藩制により厳原藩と改称されて、厳原藩知事となった。これとともに「対馬府中」の地名も「厳原」に改められた。1871年(明治4年)7月の廃藩置県により厳原県となり、その後9月に伊万里県へ編入された。1872年(明治5年)、伊万里県は佐賀県に改められ、さらに1876年(明治9年)4月三潴県に合併され、8月には長崎県の管轄にうつされた。 1884年(明治17年)、宗家当主・宗義達は伯爵に叙された。本来の叙爵基準によると宗家の石高では子爵相当だったが、対朝鮮外交担当者としての家格が考慮されたと見られている。
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