対馬要塞の建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 02:32 UTC 版)
詳細は「対馬要塞」を参照 ロシアやイギリスをはじめとする列強の対馬接近に脅威を感じた日本政府は、国境最前線であった対馬島の要塞化を図った。大日本帝国陸軍は、1878年(明治11年)には熊本鎮台から対馬分遣隊を対馬に派遣していたが、1886年には陸軍対馬警備隊が置かれた。対馬要塞の建設工事は、浅茅湾防備のため1887年(明治20年)より着工した。この工事は東京湾に次いで日本で2番目のものであった。1888年(明治21年)10月まで温江・大平・芋崎・大石浦の4砲台が完成し、日清戦争を迎えた。 大日本帝国海軍は、1896年(明治29年)、対馬周辺海域を防衛する要港部として浅茅湾に竹敷要港部を置いた。これは、日本海軍初の要港部であった。1898年(明治31年)以降1903年(明治36年)まで、四十八谷・大平高・姫神山・城山・折瀬ヶ鼻には砲台が、城山・根緒・上見坂には堡塁が築かれた。
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