対馬警備隊の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/29 14:41 UTC 版)
対馬中央部の浅茅湾(浅海湾)竹敷地区は海軍の拠点であり、対馬要塞は竹敷の海軍施設に対する外海からの攻撃を防ぐ目的で建設された。そのため、初期の対馬要塞に設置された砲台は浅茅湾に集中している。1887年(明治20年)4月から工事が開始され、東京湾要塞に次いで日本で2番目に建設された要塞となった。1888年(明治21年)10月までに4砲台が竣工し、日清戦争を迎えた。 日清戦争後に対馬要塞の防備は強化され、浅茅湾に加え、三浦湾・舟志湾でも砲台の設置が計画された。浅茅湾では四十八谷砲台・大平高砲台・城山砲台・城山付属堡塁が、三浦湾では姫神山砲台・折瀬ヶ鼻砲台が、舟志湾では根緒堡塁・上見坂堡塁が着工し、日露戦争前の1903年(明治36年)3月までに完成した。 日露戦争中、バルチック艦隊に備えて浅茅湾の防御を強化するため、郷山砲台・樫岳砲台・多功崎砲台・廻砲台の建設に着手したが、廻砲台の工事は中止された。
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