天保の飢饉と備荒貯蓄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/16 00:42 UTC 版)
天保4年(1833年)、日本中を苦しめる天保の大飢饉が起こった。稲橋村も例外ではなく、村人は飢餓に瀕していた。暉皃は家政改革に着手したばかりで自分も苦しかったが、「己を責めて人に施すは今の時也」と精米一石二斗、精麦一石八斗を給与するとともに、領内富裕者に呼びかけ、金を出し合って米を買い、無利子五年賦で貸与するなど村人を飢餓から救うことに努めた。 一方、備荒の目的を以て、暉皃は自費で杉苗を買い各戸に40本宛て配り、稲橋村共有山の植林に着手した。 天保7年(1836年)、再び大飢饉に見舞われ、隣の加茂郡に一揆・打ち壊しが起きた。暉皃は十一ヵ村の惣代となって赤坂代官所へ村方救済の急夫食(食料となる米穀)や破免検見(凶作時の年貢の大幅減)を度々請願した。こういった努力により天保の飢饉にあたって、稲橋村では一人の餓死者も出さなかったと言われている。
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