貨幣司一分銀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 16:30 UTC 版)
慶應4年4月17日(1868年5月9日)、維新政府は銀座を接収し、同月21日、太政官に設立された貨幣司(かへいし)は明治2年2月5日(1869年3月17日)までに銀座で旧幕府発行のものを踏襲した一分銀および一朱銀を鋳造した。 このときのものが貨幣司一分銀(かへいしいちぶぎん)と呼ばれるものである。裏面の「常」字の第一~三画までが「川」の字に近く、川常一分銀(かわつねいちぶぎん)とも呼ばれ、鋳造期間が明治に改元された後も続くことから明治一分銀(めいじいちぶぎん)とも呼ばれる。また従来の一分銀に対し一般的に質が劣り亜鉛を含むものがあり、亜鉛差一分銀(あえんさしいちぶぎん)と呼ばれることもある。ただし明治一分銀とされるものにも銀90%程度の良質なものも存在し、その詳細については不明である。 明治元年中、東京において300,508両2分、明治元年7月〜2年2月にかけて大阪長堀において766,325両が鋳造された。 「川常」であることまた逆の桜花の位置で安政一分銀と区別されるが、これも諸説あり現在のところ確定的でない。 二分判、一朱銀および天保通寳と同様に藩および民間による贋造が横行し、久留米藩では明治元年9月(1868年)から翌年6月までの間に3万両にも及ぶ鋳造を行ったとされる。 現存数が少ないことから、天保一分銀・安政一分銀に比べると現在の古銭市場での取引価格が高い。
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