天保山の成立と薩英戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 14:06 UTC 版)
「天保山町 (鹿児島市)」の記事における「天保山の成立と薩英戦争」の解説
天保山は名前の通り、天保年間に天保の改革の一環として甲突川の浚渫土砂によって埋立てられ造成された土地である。 のちに島津斉興によって洋式砲術調練場が天保山に設置され、砲台や防弾火薬庫が整備されのちに島津斉彬によって改修された。 1862年(文久2年)9月14日、武蔵国橘樹郡生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦)において薩摩藩の国父島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を薩摩藩士が無礼討ちした事件(生麦事件)に端を発して、1863年(文久3年)7月2日、薩摩藩に対して交渉を行うため鹿児島湾に7隻のイギリスの艦隊が派遣された。イギリス側が薩摩の汽船3隻を掠奪したことに激発した薩摩藩は天保山に設置されていた11門の砲台からイギリスの艦隊に対して砲撃を行った。これがきっかけとなり、薩摩藩とグレートブリテン及びアイルランド連合王国(イギリス)との間で薩英戦争と呼ばれる戦闘が始まった。 「生麦事件」および「薩英戦争」も参照
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