切捨御免
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切捨御免(きりすてごめん、斬捨御免)とは苗字帯刀とともに、戦国時代の次の時代である江戸時代初期の辻斬り禁止後[1]に武士へ相手に無礼を止めるように注意後も無礼を働き続けた場合に限り認められた殺人への後世の呼称である。当時の呼称は史料においては「手討」「打捨」である[2][3]。切捨御免は最下級武士である足軽にも認められていたものの[4]、無礼の様子の目撃者などの証拠や正当な理由が確認出来ない場合、所定の手続きをしなかった場合、違法である「辻斬り」として処罰された[4]。
注釈
出典
- ^ “辻斬りとは”. コトバンク. 日本大百科全書(ニッポニカ),デジタル大辞泉,デジタル大辞泉プラス. 2022年6月28日閲覧。
- ^ カワウソ編集長 (2022年6月19日). “無礼討ち「切捨御免」とは?本当は使いたくない太平の武士のプライド維持装置”. ほのぼの日本史. 2022年6月28日閲覧。
- ^ a b c d e 谷口(2005)pp.15-18
- ^ a b “切捨御免とは”. コトバンク. 2022年6月24日閲覧。
- ^ goo国語辞書
- ^ 中江克己 『お江戸の武士の意外な生活事情―衣食住から趣味・仕事まで』 PHP文庫 2005年6月
- ^ a b 朝日重章『鸚鵡籠中記』
- ^ 氏家幹人 『江戸藩邸物語―戦場から街角へ』 中公新書 1988年6月
- ^ 守屋浩光 岡山藩研究会編『藩世界の意識と関係』「法制史研究」51 法制史学会 2002年3月
- ^ a b 三好昭一郎 徳島城下における「溢れ者」の横行とその対策 『異事旧記』を素材として 佛教大學大學院紀要30号 2002年3月
- ^ “生麦事件はなぜ外国との戦争にまで発展したのか?生麦事件のポイント5つ|ベネッセ 教育情報サイト”. ベネッセ教育情報サイト. 2024年4月10日閲覧。
無礼討ち
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宇和島藩では安政2年(1855年)と明治4年(1871年)の2回にわたり無礼討ちが起こっている。前者は藩命による直々の無礼討ちであるが、後者は日本最後の無礼討ちと伝わっている。 安政2年の件では、宍戸甲太郎という武士が差料を奪われそうになり、何とか守ったが鞘を奪われたために面目を失い、藩の助けを得て元助・幸兵衛という犯人を討った。宍戸の腕はかなり未熟で、何度も斬りつけてようやく討ち果たしたといわれ、「見事と申すほどにはこれなく」とある。明治4年の件では、宗紀の側近須藤頼明が百姓丑松を斬ったとされるもので、佐伯橋で須藤と丑松が出くわした際、酔っていた丑松が須藤の通路をふさぐ悪戯をした。このため須藤は注意したが、丑松は相手が若侍と面罵したため、野次馬が集まる前で丑松を一刀の下に斬り捨てた。ちなみに、無礼討ち禁止令は明治4年(1871年)8月17日に出されているため、日本最後の無礼討ちとも伝わっている。
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