無礼討ち事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/30 08:26 UTC 版)
寛永11年(1634年)3月28日江戸城和田倉馬場において、水戸頼房邸から帰城途中の家光に対し、松平直政が献上した馬の上覧が行われたが、定矩が馬に乗ろうとした際、手綱が異母弟定久の顔に当たってしまった。帰り際に桜田口で定久が「よくも手綱を顔に投げつけて辱めてくれたな。討ち果してやろう。」と憤り、定矩が「そんなことは自分には全く覚えがない。たとえそんなことがあったにしても、責められることではない。」と否定すると、定久は抜刀して斬りかかり、定矩は左頬を負傷したが、太刀で応戦し、定久の臍の辺りを両断した。 定矩はすぐに阿部忠秋邸に出頭し、目付衆の僉議の結果、供述に疑義はないとして無礼討ちと認定され、家光から「処置尤も神妙である。」と褒詞を受け、忠秋家来鈴木宇右衛門との養生を命じられた。しかし、父定吉は激怒し、継母の訴えにより見廻りと称して鈴木宅に押し入り、長刀で宇右衛門に斬りかかった。宇右衛門が「定矩は忠秋様が預っている。」というと、定吉は「定矩が弟を斬って御感に預かったなら、私は嫡子を斬って御感に預かろう。」と主張し、忠秋等に宥められた。以降同様のことが2,3度あり、定吉は定矩を恨み続け、継母もことあるごとに末弟成定に「定矩はお前の兄の仇だ。必ず復讐してくれ。」と言い聞かせたという。
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