無神論と合理主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 07:33 UTC 版)
「リチャード・ドーキンス」の記事における「無神論と合理主義」の解説
ドーキンスは率直な無神論者で、宗教批判者である。「無神論は進化を理解することの必然的な延長である」と考えている。また「宗教は科学と両立し得ない」とも考えている。 『盲目の時計職人』では次のように述べている。 ダーウィンの以前に無神論者というものがいたとすれば、その人はヒュームに従ってこう言うこともできただろう。「生物の複雑なデザインについての説明を私は持ち合わせていない。私に分かっているのは、神を持ち出してもそれをうまく説明できないということだけだ。そういうわけで我々は、誰かがよりうまい説明を携えて現れるのを待ち望むほかない」と。そういう立場は、論理的に聞こえはしても、聞く者にとても納得のいかない気分を残すものだし、無神論はダーウィン以前でも論理的には成立し得たかもしれないが、ダーウィンによってはじめて、知的な意味で首尾一貫した無神論者になることが可能になった。 1991年のエッセイ「心のウイルス」 では「ミーム理論によって宗教信仰という現象、および非教徒への罰というような宗教が共通して持つ特徴を分析し、説明できるのではないか」といったことを主張している。ドーキンスによれば「信仰(「証拠に基づかない信念」と定義している)は世界の最も大きな悪の一つで、ウイルスによるものよりも根絶が難しい疫病」と表現している。加えて過激な宗教、たとえばイスラム教徒のテロやキリスト教原理主義への軽蔑でも知られている。同時に、生物学者ケネス・ミラー や遺伝学者フランシス・コリンズ、神学者アリスター・マクグラスやリチャード・ハリス のような宗教的な科学者、宗教に寛容な知識人にも批判的である。ドーキンスは彼らの証拠に基づいた科学と証拠に基づかない信念の衝突についての二面性を批判している。一方でドーキンスは自らを教義は受け入れないが、文化や習慣の点では影響を受けているという意味で「文化的クリスチャン」「イエスに賛成する無神論者」と表現している。 2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件の後にはこのように書いている 我々の多くは宗教を無害なナンセンスだと考えている。信仰はあらゆる種類の証拠を欠いているが、松葉杖を必要としている人たちの安らぎとなることができる。どこが危険なのだ?と。9月11日以降、全てが変わってしまった。宗教信仰は無害なナンセンスなどではなく、致命的に有害なナンセンスとなった。宗教は人々の持つ正義感に強固な信念を与えるために危険である。他人を殺害することへの抵抗心をなくし、殺人への誤った勇気を与えるために危険である。異なる伝統を持つ人々に敵というレッテルを張るために危険である。そして宗教は、特別に批判から守られるべきだという人々からの奇妙な賛同を得たために危険である。忌々しい敬意を払うことはもう止めるべきだ! ドーキンスは科学と宗教の関わりについて広い議論を行っていることでよく知られている。2006年の著書『神は妄想である』は世界中で大きな売り上げを達成し、今日では彼の著書の中で最もよく知られる一冊となった。この成功は文学における無神論の人気の高まりや時代精神を反映していると考えられている。『神は妄想である』はノーベル賞受賞者であるハロルド・クロトー、ジェームズ・ワトソンや心理言語学者スティーブン・ピンカーらを含む多くの知識人から賞賛された。本書の中で、「無神論者は誇りを持つべきだ、卑屈になる必要はない、なぜなら無神論は健全で独立した精神の証拠だからだ」と述べている。彼は教育と意識高揚が、宗教的ドグマや教化に対する最も有効な「道具」だと考えている。またこの「道具」は人種差別のようなステレオタイプと戦うためにも有用だと主張している[要出典]。 彼は自然主義的な世界観を持っている事を表明するのに(自分の宗教を表すのと同じような意味合いで用いる語として)「ブライト」と言う語を提唱している。またフェミニストの圧力で、読者(the reader)を指示するのに、「彼」(he)という語の代わりに「彼女」(she)や「彼あるいは彼女」(he-or-she)を用いることについて違和感を表明している。同様に、「クリスチャンの子ども」や「ムスリムの子ども」のような呼び方は「マルキストの子ども」や「ケインジアンの子ども」と呼ぶのと同じように馬鹿げており、親のイデオロギーや信念で子どもを分類するべきではなく、子どもにクリスチャンもムスリムもないと主張している。 前オックスフォードの神学者アリスター・マクグラスは、「ドーキンスはキリスト教神学に"無知"で、したがって宗教や信仰について論じる資格はない」と考えている。ドーキンスはそれに対し「妖精学を疑う前に妖精学について事細かに調べたりするものだろうか?」と反論した。『神は妄想である』のペーパーバック版ではアメリカの生物学者PZ.マイヤーズの「廷臣の回答」という比喩に言及している。マイヤーズは「ドーキンスには現代の洗練された神学議論への理解が欠けているが、洗練された神学の議論は廷臣が皇帝に着せたきらびやかな衣類のようなものだ。ドーキンスが告発しようとしているのは衣類ではなく生身の皇帝だ」といった主旨のことを述べた。その後もマクグラスとドーキンスの議論は断続的に行われている。 キリスト教哲学者キース・ワードは2006年の著書『宗教は危険か?』で、ドーキンスや同僚たちによる、宗教は社会的に危険であるという主張に反論している。『神は妄想である』への批判は他にも哲学教授ジョン・コッティングハム や倫理学者マーガレット・ソマーヴィルから「過度の宗教批判」と指摘されている。同様のドーキンス批判で邦訳されているものには生物哲学者マイケル・ルースの『ダーウィンとデザイン -進化に目的はあるのか?-』などがある。 一方ドーキンスの擁護者たちは、批判者たちがドーキンスが提示した本当の論点について述べていないと指摘している。ドーキンスは、ルースの「味方となりうる人々を侮辱するのに時間を費やしている」と言う指摘に対して、遺伝学者ジェリー・コインの発言を次のように引用している。「単に創造論対進化論の論争ではない。ドーキンスやウィルソンのような科学者からすれば本当の戦いは合理主義と迷信の間で繰り広げられている。科学は合理主義の一形式に過ぎず、一方で宗教は最もありふれた迷信の形式である」。 ドーキンスはまた、「他の仮説と同じように、神の存在も科学的仮説として扱える」と述べている。そしてスティーブン・ジェイ・グールドが唱えた「重複しない教導権(NOMA)」にも同意していない。タイム誌のインタビューで次のように述べている。 私はグールドの(宗教と科学の)棲み分けの提唱は、中道的な宗教者を科学の側に引きつけておくための純粋に政治的な戦略だったと思います。しかしそれは非常に空疎な考えです。多くの分野で、宗教は科学の芝生に踏み込んでいます。奇跡へのどんな信仰も、科学の事実だけでなく科学的精神と相容れないものです。 王立協会会長で天文学者であるマーティン・リースは、「ドーキンスの宗教主流派への批判が役に立たないものだ」と述べている。リースは2007年の著書『宇宙の素顔』で「(宗教が扱うような)そのような問いは科学の範囲を超えている。そこは神学者と哲学者の領分である」と述べている。それに対し、ドーキンスは「なぜ科学者が答えられないからといって神学者に明け渡さなければならないのか?」と反論した。また「神学者は科学者が答えることができない宇宙論の深遠な質問に対して、どのような専門的な回答をすることができるのか?」と指摘し、「伝統、権威、神の啓示によってのみ支えられた信念と、証拠や論理によって支持されている信念の間には大きな隔たりがある」と述べた。 ドーキンスは「誠実な信仰を持った良き科学者」として物理学者ラッセル・スタナードらの名を上げ、「キリスト教の細部について彼らがどのように考えているのか(中略)私は困惑させられる」と述べている。また『神は妄想である』の出版が、彼の宗教批判の「たぶん頂点」であると述べた。 2007年に、ドーキンスは世界中の無神論者が自分の立場を公言できるようにアウト・キャンペーンを始めた。ゲイ人権運動のように、多くの人々が無宗教的な視点を持っていることを明らかにすることで、宗教的な人々の中で無神論者へのネガティブなイメージを軽減し、無神論者がその立場を維持できるようになることをドーキンスは願っている。
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