無私無欲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:19 UTC 版)
岡田は自分個人に図書類が寄贈されても、自分の手元には置かずにすべて図書館の蔵書とした。友人から旅行の土産を貰っても、文房具は図書館の備品とし、芸術品も図書館に寄贈した。知人たちから贈られた色紙や短冊なども、すべて図書館の蔵書印を押して図書館のものとしていた。そのために没後には、家には軸物はおろか短冊、色紙など一切が残されていなかった。死去前の妻への遺言も、売名行為を嫌ってのことと見られている。 前述のように生活が貧困を窮めた際に平出喜三郎からの援助を受けたが、岡田は生活が楽になることよりも「おかげでまた蔵書をますことができ、区民のためこんなに嬉しいことはない」と喜んだ。函館は港町として日本でいち早く海外への門を開いた町であることから、五島軒などが洋食を取り入れていたが、極貧生活を通じて一汁一菜に慣れた岡田は、後年にもそのような料理には決して手をつけなかった。港町育ちということもあり、食卓での贅沢品はせいぜい、イカの刺身、カレイの焼き魚などの安価な部類の魚介類だった。 1920年(大正9年)に、函館教育会が教育功労者を表彰したことがあり、岡田も被表彰者の1人に選ばれた。しかし岡田は、自分を表彰に値しない人物と言い、これを辞退した。当時の教育会会長を務めていた齋藤與一郎はやむなく岡田の意思を尊重し、表彰状と賞金を預かっていた。その3年後に岡田が齋藤のもとを訪れ、賞金だけを受け取ったが、それは金銭欲ではなく、小学校の不燃化についての資料作成のためであった。小学校の不燃化に賛成する齋藤は、岡田の賞金を用いずに齋藤の個人的な援助で出版させようとしたが、岡田は齋藤の負担を固辞し、敢えて自分の賞金を出版費にあてることを承知させた。表彰状のほうは結局、最後まで受け取ることがなかった。齋藤は後にこのことを「君の純情誠に愛す可きものがある。真に君の如き天衣無縫天真爛漫の人とこそいう可きである」と回想している。
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