名誉勲章勲記
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「ヒロシ・H・ミヤムラ」の記事における「名誉勲章勲記」の解説
ミヤムラに授与された名誉勲章の勲記には、次のように記されている。 H中隊所属ミヤムラ伍長は著しい勇敢、大胆不敵、課せられた義務を凌駕する行動でその名を知らしめた。4月24日夜、H中隊は敵の侵攻が予想される防衛陣地に所在していた。機関銃分隊長のミヤムラ伍長は、部下の身に危険が迫っていることを察知すると躊躇なく遮蔽物から飛び出し、銃剣を用いた白兵戦によっておよそ10人の敵兵を殺傷した。彼は遮蔽物に戻ると、負傷した部下に応急処置を施した上で退避を指揮することになる。まもなく別の敵部隊が突破を試み進出してきた為、彼は銃弾を使い切るまで機関銃で牽制射撃を加えさせた。射撃が出来なくなると、彼は部下に後退を命じた。分隊は浸透していた敵兵を銃剣突撃で蹴散らしつつ、第2火砲陣地までの進路を切り開き、砲兵らの支援を行なった。激しい攻撃の中で中隊はミヤムラ分隊にも撤退を命じたが、ミヤムラは部下の撤退を援護する為にその場に残ったのである。彼は手持ちの銃弾を使い切るまでに、ひどく負傷しながらもおよそ50人の敵を殺傷した。そしてその地点が敵に突破されるまで攻撃を続け、彼は血まみれになりながもその重要な役割を果たし続けていたのである。最後に目撃された時、彼は圧倒的な数の敵兵に対して果敢に戦い続けていたという。ミヤムラ伍長の不屈の英雄的行動と義務へのこれ以上ない献身は、彼自身に最大の栄誉をもたらし、また軍人の輝かしい伝統を守ることにつながった。
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名誉勲章勲記
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ガーマンに授与された名誉勲章の勲記には、次のように記されている。 課せられた義務を凌駕する類稀なる武勇と自らの命をも顧みない勇敢に捧ぐ。 1944年8月25日、フランス・モントロー付近にて、セーヌ川北岸に進出した我が軍は橋頭堡の確保を巡り敵軍との激戦を展開していた。戦いの中、負傷者らは衛生大隊から派遣された担架員が乗り込んだアサルトボート(英語版)で南岸に避難していた。ガーマン二等兵も担架員としてこのボートに乗り込んでおり、戦闘が繰り広げられる北岸から友軍救急車が待機する南岸へと負傷者を送り届けていた。しかし、負傷者を満載したあるボートが川の半ばにたどり着くと、突然100ヤード先の北岸のドイツ軍機関銃陣地からの銃撃が始まったのである。負傷者らは水面に飛び込んだが、1名は重傷の為に立ち上がれなかった。さらに別の2名も負傷の為に泳げずボートにしがみついていた。これら負傷者らの危機的状況を目の当たりにしたガーマン二等兵は、躊躇することなくセーヌ川へと飛び込んだ。銃火の元を泳いでまもなくボートに到達した彼は、多大なる努力の元にこのボートを南岸へ曳航したのである。この英雄的行いは3人の負傷者を救っただけはなく、彼の戦友を奮い立たせ、担架員らはすぐさまガーマンが曳航してきたボートに乗り組んで負傷者輸送の任務を再開したのである。ガーマン二等兵の偉大なる勇敢さと衛生隊最高の信条に基づく英雄的行いは、衛生隊の歴史に大いなる誇りをもって書き記される事だろう。
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名誉勲章勲記
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ヴラグに授与された名誉勲章の勲記には、次のように記されている。 オルモック街道のアメリカ軍検問所が敵戦車隊の攻撃を受けた時、彼は課せられた義務を凌駕する類稀なる武勇と勇敢を示したのだ。機関銃と37mm砲による激しい砲撃の中、彼はロケットランチャーと6発の弾を持ち、遮蔽物から飛び出した。自力でロケット弾を込めた後、一発の射撃を以って搭乗員を全員殺害し、まずは1両目の戦車を破壊した。2両目の戦車の乗員らは下車して彼を攻撃しようと試みたが、彼はピストルでそのうち1人を射殺した。他の兵士は戦車の中へ再び逃げ込んだが、2発目のロケット弾がこの戦車を破壊した。残り3両の戦車が道路上に移動すると、彼は先頭車両の側面からこれを撃破し、敵からの激しい応射を受けつつ、再び前面へ移ってもう1両を破壊した。最後の射撃によって敵戦車は擱座し、それが原因で急な土手を転がり落ちていった。多勢の敵を前にしながらも揺るがぬ勇気を以って、ヴラグ上等兵は単独で5両の敵戦車を破壊し、大隊の任務遂行を容易にしたのである。
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名誉勲章勲記
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アメリカ陸軍のゲイリー・アイヴァン・ゴードン曹長は、ソマリアのモガディシュでアメリカ陸軍特殊作戦司令部とレンジャー任務部隊の狙撃チームリーダとして従軍していた時、1993年10月3日の任務において、顕著な義務の要求を超える行動があった。ゴードン曹長の狙撃チームは、激しい自動兵器とロケット推進手榴弾による攻撃を受けながら、攻撃中のヘリコプターの先頭において2機のヘリコプターの墜落現場に対する精密射撃を実施していた。ゴードン曹長は、地上部隊が2機目の墜落現場の援護に利用できないことを知った時、現場に接近する多数の敵の存在をよく理解していたにも関わらず、別の狙撃兵とともに、重傷を負った4人の乗組員を援護するために降下することを、躊躇なく希望した。3度目の降下要請の後、ゴードン曹長が志願した任務は許可された。瓦礫と敵の対空砲火により最初の降下が中止された後、ゴードン曹長は、墜落現場から南100メートル離れた地点に降下した。スナイパーライフルとピストルのみを装備したゴードン曹長と戦友の狙撃兵は、敵からの激しい小火器による攻撃を受けながら、重傷を負った乗組員の場所に到達するため小屋と民家が密集した迷路を通り抜けた。ゴードン曹長は、すぐにパイロットと他の乗組員を航空機から引き離し、自らと戦友の狙撃兵を最も脆弱な位置に配置し、防御陣地を確立した。ゴードン曹長は、長距離ライフルとサイドアームを使用して、弾薬を使い果たすまで不特定多数の敵兵を殺害した。ゴードン曹長は、その後、残骸に戻り、乗組員の武器と弾薬の一部を回収した。弾薬が極端に不足していたにも関わらず、彼はその一部を呆然としているパイロットに提供し、その後無線で救助を要請した。ゴードン曹長は、周囲を移動し続け、撃墜された乗組員を守った。彼の戦友が致命傷を負い、彼自身もライフルの弾薬を使い果たした後、ゴードン曹長は残骸に戻り、最後の5発のライフルの弾薬を回収し、「健闘を祈る」という言葉とともにパイロットに渡した。その後、ピストルのみで武装したゴードン曹長は、致命傷を負うまで戦い続けた。彼の行動はパイロットの命を救った。ゴードン曹長の並外れた英雄的行為と任務への献身は、兵役の最高の伝統に適うものであり、彼、彼の部隊、ひいてはアメリカ陸軍に最高の信用をもたらした。
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名誉勲章勲記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:00 UTC 版)
「ロス・A・マクギニス」の記事における「名誉勲章勲記」の解説
義務の要求を超えて、命を危険に晒した、顕著な勇敢さと勇気と捧げる: .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}ロス・A・マクギニス上等兵は、2006年12月4日にイラクのバグダード北東部アダミヤにおける武装した敵に対する戦闘作戦に関連して、第26歩兵連隊第1大隊C中隊第1小隊のM2.50口径機関銃射手として奉仕していながら、義務の要求を超越した勇敢さと勇気ある行為によって、その名を顕著なものとした。その日の午後、彼の所属する小隊は、その地域での宗派間紛争を減らし、制御するための戦闘統制作戦を行っていた。マクギニス上等兵がM2.50口径機関銃の射手を勤めていた時、反乱軍が投げた破片手榴弾が、銃座のハッチから車内に落下した。彼は素早く反応し、「手榴弾」と叫ぶことにより、同じ車両に乗車していた4人全員が手榴弾の爆発に備えることを許した。その後、銃座のハッチから安全な車外に飛び降りるのではなく、マクギニス上等兵は乗組員を守るという勇気ある決断を下した。マクギニス上等兵は、起爆された手榴弾の上に覆いかぶさり、彼の体と車両の間に固定し、爆発の大部分を吸収した。この私的な感情に捉われない勇敢な行動により、彼は致命傷を負った。 マクギニス上等兵の勇敢な行動は、4人の兵士を特定の重傷や死亡から直接的に守った。マクギニス上等兵の並外れた英雄的行為と、義務の要求を超越して、彼自身の命を犠牲にした無私無欲さは、兵役の最高の伝統に適うものであり、彼自身、彼の部隊、ひいてはアメリカ陸軍に偉大なる信用をもたらした。
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名誉勲章勲記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/06/23 03:39 UTC 版)
「ジェイク・アレックス」の記事における「名誉勲章勲記」の解説
アレックスに授与された名誉勲章の勲記には、次のように記されている。 戦闘中重要な局面において、小隊所属将校全員が負傷した際、アレックス伍長は小隊の指揮を執り、敵機関銃陣地からの銃撃で足止めされるまで前進した。その後、彼は銃火に身を晒しつつ単独で30ヤードほどを前進し、機関銃陣地への攻撃を行った。ここで彼は5人を銃剣で刺殺し、銃剣が折れた後には銃床を用いて戦い続け、最終的には15人の捕虜を得たのである。
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名誉勲章勲記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/12 21:05 UTC 版)
「ウィルソン・ワトソン」の記事における「名誉勲章勲記」の解説
ワトソンに授与された名誉勲章の勲記には、次のように記されている。 1945年2月26日から27日にかけて、硫黄島において彼が第3海兵師団第9海兵連隊第2大隊付自動小銃手として果たした、課せられた義務を凌駕する類稀なる武勇と自らの命をも顧みない勇敢に捧ぐ。分隊が前進線に指定されていた岩山へ移動している最中、突然岸壁上の敵陣から銃撃を受け足止めされた時、ワトソン二等兵は大胆にもトーチカの1つへと掛けより銃眼に自動小銃を突き入れ銃撃を行い単身で敵を釘付けにした上、自軍小隊の任務を達成させるべく、トーチカに手榴弾を投げ入れてからその後方に回って逃げ出してきた日本兵を全て倒した。その後、小高い丘の敵陣からの銃撃が始まり再び部隊が釘付けにされると、迫撃砲弾と機関銃弾が降り注ぐ中、彼は勇敢にもジグザグに丘を駆け上り、腰だめ射撃を行いつつ弾薬手と共に丘の頂上への突撃を敢行した。逆側の斜面にいる日本軍部隊から手榴弾や擲弾筒での反撃が始まっても、彼は恐れることなく、隠れもせずにおよそ15分間も敵塹壕を銃撃し続け、自動小銃の弾が切れた頃には60人の日本兵が死に、小隊が彼に追いついていた。壊滅的な劣勢に対して彼が示した勇敢と闘争心は小隊の前進を実現し、また、この激戦を経て彼が発揮した感動的なリーダーシップは、ワトソン二等兵自身とアメリカ海軍が誇る最高の名声を改めて示したのである。
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名誉勲章勲記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/08 06:27 UTC 版)
ラベルに授与された名誉勲章の勲記には、次のように記されている。 課せられた義務を凌駕する類稀なる武勇と自らの命をも顧みない勇敢に捧ぐ。 ラベル二等軍曹は第74歩兵支隊チーム・デルタの指揮官であった。その日の10時ちょうど、敵の連絡路の捜索任務に当たっていたチームデルタは敵と遭遇し、激しい攻撃に持ちこたえていた。ラベル二等軍曹と戦友らは敵を掃討するべく応戦していたが、彼は「手榴弾だ!」という叫び声を聞き、同時にチームの真ん中に手榴弾が転がり込んだのである。その時、ラベル二等軍曹は自らの命を顧みず、手榴弾の上に覆いかぶさり、直後の爆発で吹き飛ばされた。戦友を救わんとするラベル二等軍曹の不屈の勇気と献身が為に、チームデルタの他隊員らは被害を免れたのである。軍歴に最も輝かしく書き記された捨て身の勇敢さにより、ラベル二等軍曹は彼自身、彼の部隊、そしてアメリカ陸軍の信望を確かなものにしたのである。
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名誉勲章勲記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 09:02 UTC 版)
「ウィリアム・ドノバン」の記事における「名誉勲章勲記」の解説
ドノバン中佐は激しい攻勢下にもかかわらず自ら襲撃部隊を指揮して反撃を行った。当時、友軍には多数の死傷者が出ており、彼は自ら敵前に姿を晒しつつ散らばっていた兵士らの間を行き来して臨時小隊を編成、反撃に打って出たのである。彼は機関銃で足が撃ちぬかれても避難せず、部隊が遮蔽物に逃げ込むまで指揮を続けた。
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名誉勲章勲記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/10 18:01 UTC 版)
スタインに授与された名誉勲章の勲記には、次のように記されている。 1945年2月19日、火山列島の硫黄島における日本軍との戦いの中で、彼が第5海兵師団第28海兵連隊第1大隊A中隊の一員として果たした、課せられた義務を凌駕する類稀なる武勇と自らの命をも顧みない勇敢に捧ぐ。最初の上陸に参加して海岸にて配置についたスタイン伍長は、自ら改造した航空機銃を用い、引き続き上陸を図る小隊の後続部隊への援護を行った。戦友達が機関銃や迫撃砲の集中砲火を浴びて足止めされた時、彼は大胆にも立ち上がって敵前に身を晒し、銃撃を自分へと向けさせ、その中で彼は猛烈な銃撃を続ける敵銃座の位置を確認した。この戦略的に配置された火点の無力化が決定されると、彼は大胆にもこれらのトーチカに次々と飛び込み、最終的には単身で20人以上の敵兵を殺害した。辺り一面に砲弾や銃弾が冷酷な雹の如く降り注ぐ中でも彼は冷静かつ勇敢で、巧みに改造機銃を使いこなして銃撃を続けていたが、間もなく銃弾が尽きてしまった。彼は臆することなく、動きやすいようにとヘルメットと靴を脱ぎ捨て、銃弾を補給する為に8度も海岸の陣地へと走り、また海岸に戻る度に負傷した兵士を連れ戻ったり、あるいは援護するなどした。戦闘は容赦なく野蛮と混乱を極めていったが、彼は小隊が配置につく時は必ず迅速な援護を行い、また頑なに抵抗を続けていたトーチカに対するハーフトラックによる攻撃を指揮し、日本軍陣地の最終的な破壊をもたらした。後日、彼は2度戦闘に参加し、小隊の中隊陣地への撤退を援護した。豪胆かつ不屈の男、スタイン伍長が積極的に示した正しい判断、多勢の敵を前にしながらも揺らがぬ責務への献身、任務に対する重大な貢献、そして苦しい戦いの中で示した勇気は、アメリカ海軍が誇る最高の伝統を一層と高めたのである。
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名誉勲章勲記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/17 15:23 UTC 版)
コールに授与された名誉勲章の勲記には、次のように記されている。 1944年6月11日のフランスにおける、課せられた義務を凌駕する自らの命をも顧みない武勇と勇敢に捧ぐ。コール中佐は自ら大隊を率いカランタンへ通ずる最後の4つの橋へと前進していたが、目標から150ヤードまで接近した時、周到に準備を整え防備を固めた敵陣より小銃、機関銃、迫撃砲、火砲による苛烈な銃砲撃が突然始まった。壊滅的で絶え間ない銃砲撃に1時間以上晒され、一切移動できず多数の死傷者が出た後、コール中佐はこのまったく絶望的な状況を把握しつつ、勇敢にも敵陣への銃剣突撃を命じたのである。自らの身の安全など顧みず、また敵の銃火など一切無視し、彼は大隊の一歩前に出て立ち上がり、ピストルを抜いて自身に続かんとする部下に向かって叫んだのである。倒れた兵士の小銃と銃剣を拾い上げると、彼は大隊残余の先頭に立って突撃に移り、遮蔽物もないままに掃射を潜り抜けて敵陣へと飛び込んだ。彼の英雄的かつ勇敢な行いは彼の部下を鼓舞し、その結果我が軍のドーブ川における橋頭堡の完全なる確保を成し遂げたのである。コール中佐が示した冷静、大胆不敵、持ち前の勇気、卓越したリーダーシップは彼自身に信望をもたらし、また軍人として最高の賞賛にも値する。
※この「名誉勲章勲記」の解説は、「ロバート・コール」の解説の一部です。
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