名誉勲章の勲記
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「オーディ・マーフィ」の記事における「名誉勲章の勲記」の解説
マーフィの名誉勲章の勲記には、次のように記されている。: B中隊を率いていたマーフィ少尉は、6輌の戦車と歩兵の波状攻撃にさらされた。マーフィ少尉は部下に森林まで後退するように命じながらも、自らは前線指揮所にとどまり砲兵隊との通信を続けたのである。そして彼のすぐ近くで友軍の戦車駆逐車が直撃弾を受けて爆発し、乗組員が森の中へと逃げこんでゆくのを見た。マーフィー少尉は砲撃指揮を続け大量の敵歩兵を殺傷して足止めした。さらに敵の戦車が現れると燃え上がる戦車駆逐車に駆け上り、いつ爆発するともわからない危険な状況にも関わらず、車載の50口径機関銃を用いて反撃したのである。孤軍奮闘する彼は3方向からの砲火に晒されていたが、彼はそのまま数十人以上のドイツ兵を殺傷し、ドイツ軍部隊に動揺をもたらした。やがて歩兵の支援を失った敵戦車は後退を始めた。ドイツ軍はマーフィー少尉を殺害する為にありとあらゆる、持ちうる限りの装備全てを投入したが、マーフィ少尉が倒れる事はなく、右側面から接近していた分隊を一掃した。ドイツ軍はおよそ10ヤード程度まで接近していたものの、それ以上の前進はマーフィ少尉による銃火で阻止された。この際に彼は足を負傷したが、それを気に留めることもなく、銃弾を使い切るまで戦い続けた。その後、中隊に戻ったマーフィ少尉は軍医による診察を拒否してすぐさま中隊に反撃を命じ、これによってドイツ軍部隊は撤退を余儀なくされたのである。 彼が指揮した砲撃は敵の大半を殺傷した。少なくともおよそ50名の敵兵は彼の砲撃で死傷している。マーフィ少尉が備える不屈の勇気と1インチたりとも譲らぬという硬い意志が、中隊を包囲及び壊滅から救ったのであり、またその為に敵の攻撃目標であった森の保持に成功したのである。 この戦いでマーフィは6輌の戦車を破壊し、またおよそ240名のドイツ兵を殺傷した上でより多くを負傷ないし捕虜にしたとされている。彼は名誉勲章以外に殊勲十字章(Distinguished Service Cross)、2つの銀星章、レジオン・オブ・メリット、2つの銅星章、3つの名誉戦傷章を受章している。マーフィはまた、北アフリカ、シチリア、イタリア、フランス、ドイツの5戦線で戦った為、銀星戦闘章付欧州・アフリカ・中東従軍勲章を受章しており、4つの銅星戦闘章にはシチリア及び南イタリアにおける2度の上陸を示す銅の矢じりが付されていた。さらにフランス戦線に従軍していた折、マーフィは第3歩兵師団および第15歩兵連隊の一員として、2度の大統領殊勲を受けている。 フランス政府はマーフィに対してレジオンドヌール勲章シュヴァリエ級を授与している。また2つの戦功章(Croix de guerre)をフランスから、椰子葉付1940年戦功章(Croix de guerre 1940 Palm)をベルギーから受章している。その他に戦闘歩兵記章(Combat Infantryman Badge)も受章している。彼は29ヶ月間を海外の戦地で過ごし、また2年間を第3歩兵師団の戦闘員として過ごしたが、それでもなお21歳未満であった。 1945年6月初頭、ドイツ降伏の1か月後、彼は英雄として故郷テキサスを凱旋し、パレードと宴会の後にスピーチを行った。1945年8月17日、マーフィはサン・アントニオのサム・ハウストン駐屯地にて陸軍中尉として予備役に編入され、1945年9月21日にアメリカ陸軍を除隊した。 1945年7月16日、マーフィは「最も勲章を受けた兵士」(most decorated soldier)としてLIFE誌の表紙を飾った。朝鮮戦争終結後の1950年7月、マーフィはテキサス州軍第36歩兵師団に入隊する。ただし、この師団は戦闘に参加しないものと定められている。その後、1966年に少佐として州軍を除隊した。 彼が実際に受けた勲章および記章はダラス・スコットランド・ライト・テンプル博物館および第15歩兵連隊のチャイナ・ルーム展示室にて展示されている。
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名誉勲章の勲記
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「ロジャー・ウィルトン・ヤング」の記事における「名誉勲章の勲記」の解説
ヤングに授与された名誉勲章の勲記には、次のように記されている。 1943年7月31日、ヤング一等兵の所属する歩兵中隊は、夜のうちに大隊が移動することに伴い一時的に前線からの撤退を命じられた。この時、ヤング一等兵が所属する小隊は非常に見通しの悪いジャングルの奥地で敵と遭遇したのである。小隊はわずか75m先の高地に隠されていた日本軍機銃陣地からの激しい銃撃によって釘付けにされてしまった。ヤング一等兵は最初の掃射で負傷してしまった。小隊が撤退を決意した時、ヤング一等兵は自分が機関銃陣地を始末すると言い、敵めがけて匍匐前進を始めた。次の機銃掃射でさらに負傷しながらも、彼は英雄的に前進を続け、小銃で応戦しつつ敵の注目を自らへと集中させたのである。十分敵陣地に接近した彼は手榴弾を投げ込んだが、それと同時に次なる銃撃を受けて戦死した。ヤング一等兵の大胆な攻撃によってその日本軍陣地を破壊したからこそ、彼の小隊はそれ以上の損害を受ける事無く前線を逃れる事が出来たのである。
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名誉勲章の勲記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/04 08:05 UTC 版)
マイズに授与された名誉勲章の勲記には、次のように記されている。 K中隊所属マイズ曹長は著しい勇敢、卓越した勇気、課せられた義務を凌駕する行動でその名を知らしめた。敵軍の大攻勢が始まった時、K中隊は戦略的要衝であるハリー前哨地点の防衛に従事していた。友軍聴音哨の兵士が激しい弾幕の中を移動して負傷したと聞いた彼は、衛生兵を伴い負傷者の救出にあたった。持ち場に戻った彼は効果的な防衛体制を確立、前哨区域内の塹壕に浸透しつつあった断固たる決意の元にある敵戦闘部隊への反撃を行い、大きな損害を与えた。この大胆不敵な反攻の最中、彼は砲撃や手榴弾の爆風で3度倒れたが、その度に臆することなく立ち上がり、頑強に戦い続け、ついに敵の攻勢を退けることに成功した。敵の大攻勢が収まった後、彼は数人の部下を連れて掩蔽壕から掩蔽壕に移動し、開口部から銃撃を行いつつ手榴弾を投擲して敵軍の排除に努めた。戦友の背後に敵兵が現れ今まさに銃を撃たんとしているのを認めたマイズ曹長はそれを射殺して戦友を救った。小隊を再集結した後、彼は全員と顔を合わせ、銃弾を再分配し、励ましの言葉を叫び、友軍機関銃陣地の位置を確認した。彼はすぐに機関銃陣地までの道を切り開くために突撃し、敵兵10人を殺害して残余にも撤退を強いた。戦闘を続けながら指揮所に戻ると、そこには負傷兵が残されており、彼らを守るべく防衛体制を立て直した。その後、無線機が確保され、彼は敵の攻撃ルートに対する砲撃を指揮した。夜が明ける頃、彼は反撃のために部隊の再編成を支援し、やがて前哨地点から完全に敵を排除することに成功した。マイズ曹長の勇敢な行いと卓越した勇気は彼自身に永遠の栄光をもたらし、また我が軍の高貴なる伝統を守ることに繋がった。
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名誉勲章の勲記
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「ゲイリー・ベイカーチ」の記事における「名誉勲章の勲記」の解説
ベイカーチに授与された名誉勲章の勲記には、次のように記されている。 課せられた義務を凌駕する類稀なる武勇と自らの命をも顧みない勇敢に捧ぐ。B-24分遣隊B中隊に所属する衛生兵ベイカーチ軍曹は、キャンプ・ダクシーンの防衛においてその名を知らしめた。キャンプ周囲に潜んでいた敵による大攻勢は友軍守備隊に大量の死傷者を強いた。ベイカーチ軍曹は自らに振りかかる危険を物ともせず、倒れた戦友を救う為に激しい砲火の中を走りぬけ、応急処置を施し救護所への搬送を行った。ある米軍将校が重傷を負い無防備な場所に倒れていると聞けば、ベイカーチ軍曹はやはり銃火をくぐり抜け将校のもとへと走った。この時、彼は榴散弾の破片を浴びて負傷してるが、それでも将校を救護所まで搬送した。彼は自らの深刻な負傷などまるで気にかけず、比較的安全な救護バンカーを抜けだして、負傷者の捜索と搬送を引き続き行った。致命傷を追ったベトナム人兵士に人工呼吸を施しつつ救護所を目指していた時、彼は再び負傷した。ベイカーチ軍曹は再び治療を拒否し、彼自身が崩れ落ちるまで負傷者の捜索を続けた。彼は最後まで自らの治療を許可しなかった。自らの生命の危機が迫る中で示された、戦友の幸福に対するベイカーチ軍曹の完全な献身は、彼と彼の部隊、そして合衆国陸軍の信望を確かなものにしたのである。
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