放牛地蔵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 20:21 UTC 版)
放牛地蔵(ほうぎゅうじぞう、ほうぎゅじぞう[1])とは、肥後国の僧放牛(? - 享保17年)が享保7年(1722年)から同17年(1732年)にかけて作った石仏(地蔵、阿弥陀、観音、釈迦、薬師、混合仏を含む)。最初に制作されたものは熊本市田迎町にある[1]。像には放牛という名前と他力という言葉と何体目かを銘している。また、道歌が彫られている場合もある。道路の分岐点とか、街角などに置かれ、市民から信仰され、よく保存されている。2021年2月現在で熊本市を中心に107体が確認されている[1]。
- ^ a b c “放牛地蔵(ほうぎゅじぞう)”. 合志市. 2022年6月25日閲覧。
- ^ 高田泰史『平成肥後国誌』上巻 p511
- ^ 白木一也『熊本県大百科事典』(1982) p728
- ^ 鍛治屋町の事件
- ^ 上記文献によると『肥後国誌』の「奉行所日誌」(事件直後に書かれたもの)にあるという。ほかに、『旦夕覚書』という文献には、大矢野源左衛門皆共一同に新知被下候其翌年正月三日か四日に賓町山本玄長とか申彈藏方へ出入仕候其屋敷の近邊かちや町通り候刻子わるさ仕候親しかり ゝ 割木を投打仕候処に通り懸り源左衛門ひたひに割木當り少し皮打裂申候其儘親逃申候故追かけ打果申候其時分拙者追廻御馬御殿前通り申候・・・・(以下略)とある。
- ^ なお、子供については取調べがあったが、石仏が現れるまで史料がなく、大矢野源左衛門は取調べを受けたが、無罪となっている。
- ^ 高田泰史『平成肥後国誌』下巻 p1123
- ^ 2011年熊本市放牛展展示
- ^ 高田泰史『平成肥後国誌』下巻 p.1154-1155
- ^ 高田泰史『平成肥後国誌』下巻 p.1126-1153
- ^ (どうか)は、芸術である短歌とは違って、仏教の教えや禅僧が悟りや修行の要点をわかりやすく詠み込んだ和歌や漢文のこと
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