天保年間の再建から昭和48年の焼失までとは? わかりやすく解説

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天保年間の再建から昭和48年(1973年)の焼失まで(4代目大仏・3代目大仏殿)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 10:10 UTC 版)

京の大仏」の記事における「天保年間再建から昭和48年(1973年)の焼失まで(4代目大仏3代目大仏殿)」の解説

寛政10年1798年7月2日方広寺大仏及び大仏殿全焼後、まず灰塵清掃作業が行われた。平戸藩藩主松浦清著した『甲子夜話』には火災現場訪れた東福寺の僧印宗の話が記録されている。7月16日に印宗が火災現場訪れた所、灰塵清掃作業が行われていた。仮屋2棟建てられ、そこに大仏殿鉄輪、その他諸々の巨金物運び込まれたという。積まれたものは丘陵のようであったという。またかつて大仏があったと思われる場所に、台座(石座)が表れた。その仕様について縦横十間ばかりと見ゆ円形なる石垣の、高さ二間ほどづゝなるを三段に築たり」としている。後述のように大仏台座(石座)は何らかの他の部材(漆喰細工木製蓮弁?)で蓮弁装飾施されていたと考えられているが、その装飾で石座は覆い隠され焼失前は人目触れることがなかった。そのため印宗は「堂跡の灰塵除けたれば、平坦と覚しきに是はいかに」と現場の者に質問した所、「ここは仏坐の下、蓮台の中の地形」との回答受けたという。 文化元年(1804年)には現在の方広寺本尊である、往時3代目大仏の1/10サイズとされる盧舎那仏坐像造られ(座高2m)、開眼法要が行われた。時同じくして仮本堂落慶し、そこに上記盧舎那仏坐像安置された。この時の本堂現存していない。 方広寺大仏焼失事実は、江戸(関東地方)の一般大衆にはあまり知られていなかったようで、江戸在住滝沢馬琴上方(関西地方)を旅行した折、焼失事実知らず享和2年(1802年)に方広寺訪問し大仏殿礎石と、大仏台座しかないという、変わり果てた姿になっているのを目撃し衝撃受けた旅行記記している(羇旅漫録)。また先述のように東海道中膝栗毛大仏焼失後に刊行されているが、作中一行方広寺大仏殿訪問し弥次喜多大仏見物して威容に驚く場面描写されている。これは作者十返舎一九江戸在住京都未見で、大仏焼失事実知らずに「都名所図会」「花洛一覧図」などを元にして物語描写したためとも言われる天保元年(1830年)は3代目大仏三十三回忌に当たるので、忌月7月遠忌供養が行われた。 江戸時代後期には方広寺大仏再建機運高まり方広寺管理していた妙法院により大仏・大仏殿再建企図され、宝物開帳行い資金集めを行うなどするものの、巨大建造物再建するだけの充分な資金が集まらず、往時同様の規模のものが再建されることはなかった。こうした事態憂い尾張国(現在の愛知県西部)の商人中心とする有志が、上半身のみの木造の仮大仏像(4代目大仏)を造り寄進した。落慶天保14年(1843年)とされる尾張商人による寄進経緯以下の通りである。名古屋方面より三木棟工郎、水谷清八、伊藤与八、花屋利八、尾張屋市蔵の5名が、方広寺管理する妙法院挨拶のため参上し、講が結成された。その後大仏造立申し出があり、資金調達のため名古屋栄国寺で、妙法院より宝物貸与を受け、天保12年(1841年)に出開帳を行うことになった天保造立4代目大仏頭部名古屋先行して作られ栄国寺公開されたという。出開帳知らせ立札は、尾張国29ヶ所、三河国伊勢国遠江国駿河国に各18ヶ所も立てられ宣伝されたほか、出開帳の期間も当初より会期延長図られた。尾張商人方広寺大仏再建積極的だったのは、尾張国が、大仏発願した豊臣秀吉故地(出身地)ゆえとも言われる出開帳等の結果、仮大仏造立用材調達でき、先行して作られ大仏頭部合わせて、船で大坂経由して方広寺運び込まれた。なお落慶した4代目大仏像容(容姿)について、従前大仏異なり民衆の手造立され、著名な仏師造立参加しなかったためか、お世辞にも容姿端麗な美仏とは言い難く拝観者におどろおどろしいとの印象持たれることが多かった郷土史家田中緑紅は「グロテスクな木像半身像」 と評している。 4代目大仏造立と時を同じくして、4代目大仏安置する大仏殿3代目大仏殿)も造立された。仮大仏殿建設資材(材木)の調達について、東海地方四国地方から調達が行われた。東海地方では伊勢国(現在の三重県)の度会郡用材買付を行い用材宮川流して運搬された。また三河国(現在の愛知県東部)の油屋増蔵より用材寄進申し入れもあったという。四国地方白髪山山麓材木の買付がなされ、用材は筏にして吉野川流して運搬したという。仮大仏殿も仮大仏同じく往時のものよりも規模縮小され造立された。 上述天保造立大仏・大仏殿は、将来大仏・大仏殿再建するまでの仮のものとい扱いである。造立された場所も従前のものとは異なり現在の方広寺大黒天堂の東側駐車場になっている場所に造立されていた。なお4代目大仏は仮のものとはいえ高さが約14mあり、東大寺大仏比肩する高さを有していた 。 文久元年1861年出版名所図会淀川両岸一覧」には「(方広寺大仏は)寛政十年七月雷火にかかりて焼亡し、今その礎石のみ存す。百分一(十分一誤記か?)の尊像再建あり。また、近年大像の半身成就し仮堂に安ず。」という記述がある。(補注:「3代目大仏の1/10の大きさ像と伝わる、座高2m現在の方広寺本尊座像」と「有志寄進造立された高さ約14mの4代目大仏」は、混同して同一のものかのように紹介されることもあるが、上記記述からも分かる通り別ののである前者現存しているが、後者昭和48年1973年)に焼失した。) 明治時代になると、新政府廃仏毀釈政策から、明治3年(1870年)に方広寺境内大部分収公され、現在の敷地規模となった。「国家安康」の梵鐘安置する鐘楼取り壊され(後に再建)、方広寺西門東寺移築された。収公地には方広寺管理下に置いた妙法院脇寺日厳院もあったが、こちらも廃され日厳客殿であった建物方広寺移設された。現在の方広寺本堂は、かつての日厳客殿である。移築にあたり、1/10の盧舎那仏座像(現在の方広寺本尊)が当該建物安置(移座)されることになり、建物改造なされた仏間等を打ち抜いて空間広げ天井高改変し、座高2m盧舎那仏座像安置できるようにした。この建物造立時期について、妙法院門主尭恕法親王日記に、寛文10年(1670年)10月11日条で、日厳院の客殿指図(図面)があり、これが現在の方広寺本堂構造一致することから、寛文10年(1670年)には存在したことが分かる京都府教育委員会京都府近世社寺建築 近世社寺建築緊急調査報告書』では、「日厳院の建物方広寺関連するとすれば、秀頼による大仏殿造営時期、すなわち慶長19年(1614年)前後という可能性考えられる」としている。 2代目大仏殿基壇3代目大仏台座については、寛政10年(1798年)の大仏焼失後も、将来再建見越してこの頃(明治初頭)まで残されていたようであるが、それに使われていた花崗岩石材多くは、1873年明治6年)に京都市内外築造された6基の石造アーチ橋(堀川第一橋など)の建材として転用されたと伝わる。石材を剥がされたのち、土地整地行われたとされ、これにより往時基壇台座は完全に消失した。なお収公された方広寺旧境内には、歴代天皇皇族位牌等を安置する明宮(数年廃絶)や、豊国神社社殿建てられた。 経緯明らかでないが、明治期方広寺妙法院管理下から脱し独立したとされている。 昭和期入り太平洋戦争での戦災方広寺免れた。「国家安康」の梵鐘金属類回収令による供出免れた戦後高度経済成長期入り国民生活水準が向上、昭和39年(1964年)に東海道新幹線開通したこともあり、京都多く観光客訪れようになったしかしながら造立されてからまだ歴史浅かったためか、4代目大仏知名度いまひとつであったようであり、拝観者もさほど多くなかった大正から昭和期にかけて活躍した郷土史家田中緑紅拝観者数の伸び悩み原因についてバス路線網の拡充原因ではないかとしている。田中によればかつては三十三間堂参拝したのち、豊国神社方広寺参拝するという順路確立していたが、車社会到来観光用バス路線網も整備され三十三間堂から清水寺直接観光客移動するようになり、方広寺素通りされるようになったのが原因なのだという。現在は特別拝観時にしか方広寺堂内拝観できないが、この頃(4代目大仏焼失前)は堂内通年拝観が可能であり、大仏殿往時大仏に関する遺物一部展示していたという。 天保造立4代目大仏3代目大仏殿昭和48年1973年3月27日深夜失火によって焼失した京都市消防局見分結果、その原因について大仏殿西側受付室で使用されていた練炭火鉢不始末練炭火鉢の底に欠けた部分があり、そこから熱が伝わり、下に敷いてあった板が過熱しくすぶり出火自動火災報知設備設置されておらず,手動設備故障していたなど,いくつも不運重なって大火となった」としている(京都市消防局公式HP・『朝日新聞1973年3月30日)。 昭和48年(1973年)に焼失した大仏・大仏殿比較最近まで存続していたにも関わらず資料(図面写真など)が極めて少ない。天保造営大仏記録失われることを危惧したある男性が、かつて趣味撮影した4代目大仏複数写真方広寺寄贈している(京都新聞2005/01/05の記事)。また京都市消防局ホームページには、かつて発生した火災記録として焼失した大仏殿写真と、焼失した大仏及びその前で実況見分にあたる職員写真掲載されている。 [参考] 岐阜大仏大仏殿(正法寺)。天保造立3代目方広寺大仏殿同じく江戸時代後期造立された大仏殿両者大仏殿数寄屋風の建築様式建てられ外観類似している。両者はいずれ民衆寄進造立されたという点も共通している。 堀川第一橋明治初頭まで残存していた大仏殿基壇大仏台座使用されていた石材建材として転用し造られたと伝わる。 明治刊行の「The guide to the celebrated places in Kiyoto & the surrounding places for the foreign visitors」の挿絵1890年撮影明治17年(1884年)再建鐘楼(現存)を撮影したもの。 奥に見えるのが3代目大仏殿方広寺発行絵葉書3代目大仏殿(右)と鐘楼(左)が写る。 現在の方広寺本堂妙法院脇寺であった日厳院の客殿を、明治初頭移築したのである

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