横須賀鎮守府第一特別陸戦隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 00:46 UTC 版)
「日本海軍空挺部隊」の記事における「横須賀鎮守府第一特別陸戦隊」の解説
横須賀鎮守府第一特別陸戦隊(横一特)は、日本海軍落下傘部隊の中心となった部隊である。1941年9月20日に編成され、司令には堀内豊秋中佐が着任した。同名の部隊が支那事変で活躍しているが、落下傘部隊として新たな人員から編成されたもので、全く異なった部隊となっている。降下訓練後、同年11月20日に半数の人員を分割し、新設の横須賀第三特別陸戦隊の要員に充てた。これにより、定員849名(うち落下傘兵750名)となった。編制は3個中隊に砲隊などを加えた1個大隊である。 太平洋戦争が始まると、1942年1月にメナド降下作戦を成功させた。横一特の2波合計408名は、ダバオから発進した第1航空隊の九六式陸上輸送機延べ45機により、落下傘降下した。速射砲隊と医務隊は、報道班とともに九七式飛行艇2機で付近の湖に空輸された。降下部隊はオランダ軍を撃破してランゴアン飛行場の制圧に成功し、海岸から上陸した佐世保連合特別陸戦隊と協力してメナドを占領した。なおこの際、メナド攻略に参加していた水上機母艦・瑞穂から発進した零式水上観測機の誤射により、メナドに向かっていた第1次降下部隊の九六式陸上輸送機27機の内1機が撃墜されて、降下員12名含む搭乗者全員が戦死する事故が発生している。メナド降下作戦での損害は、戦死32名(内12名は既述の友軍機誤射)、戦傷者32名だった。 1943年(昭和18年)3月に横三特を吸収して兵力1,500名となり、5個中隊(各3個小隊と機銃小隊)と対戦車砲小隊(速射砲5門)を基幹とする編制に改められた。司令には唐島辰男中佐が着任した。同年5月にアッツ島の戦いが起きると、救援の空挺作戦のため、300人の精鋭を選りすぐった「白菊部隊」を用意したが、作戦中止となった。 同年6月、第三中隊と第五中隊がマーシャル諸島・ギルバート諸島方面の防備強化のために抽出され、横須賀鎮守府第二特別陸戦隊(横二特)として再編されてナウル島の守備に就いた。横二特は兵力900名で、山砲2門、九二式重機関銃2丁、九九式軽機関銃5丁などを装備した通常の地上部隊となっていた。第67警備隊とともに防備にあたったが連合軍の上陸は無く、補給途絶に苦しみつつ終戦を迎えた。 同年8月に横一特はサイパン島へ進出し、訓練を行いながらの待機を命じられた。1944年(昭和19年)1月には第一中隊も抽出され、潜水艦で潜入するコマンド部隊である「S特別陸戦隊」の佐世保鎮守府第一〇一特別陸戦隊(佐一〇一特。司令:山辺雅男少佐)に改編された。佐一〇一特は、横一特から移管された機関短銃などの優良装備を持ち、チューク(トラック)島やラバウルへ進出したが、潜水艦の不足などから本来の潜入作戦を行うことは無かった。活躍の無いまま1945年(昭和20年)3月に解隊され、第四七警備隊や第八五潜水艦基地隊などの現地部隊に吸収された。 サイパン島に残った横一特主力は、補充兵により1個中隊を増設して3個中隊編制となり、引き続き訓練をしながら待機した。しかし、空挺作戦の機会は無く、任務もサイパン島守備に変わり、1944年6月15日にアメリカ軍の上陸を迎えた。横一特は、海軍地上部隊の最精鋭として陸軍部隊とともに上陸初日の夜間総攻撃に参加したが、翌朝までにほぼ全滅した。唐島司令も戦死した。
※この「横須賀鎮守府第一特別陸戦隊」の解説は、「日本海軍空挺部隊」の解説の一部です。
「横須賀鎮守府第一特別陸戦隊」を含む「日本海軍空挺部隊」の記事については、「日本海軍空挺部隊」の概要を参照ください。
- 横須賀鎮守府第一特別陸戦隊のページへのリンク