サイパンの防備準備の遅延
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「サイパンの戦い」の記事における「サイパンの防備準備の遅延」の解説
太平洋戦争開戦時、サイパンには日本海軍海軍陸戦隊第五根拠地隊(司令官春日篤少将)が置かれ、グアムの戦い (1941年)ではアメリカの領土グアム島に侵攻しているが、その後は、日本軍の攻勢による戦線の拡大もあってこの地域はしばらくは安泰であった。しかし、戦局が日本側に不利となると、戦力強化が図られるようになり、日本海軍は、メナド(マナド)攻略作戦で活躍した海軍空挺部隊である横須賀鎮守府第一特別陸戦隊(司令官唐島辰男中佐)900人を機動予備兵力としてサイパンに派遣し、南部にアスリート飛行場(現在のサイパン国際空港)、西岸タナパグに水上機基地、最高峰タッポーチョ山(標高473m)に電探を置くなど、軍事施設を整備していった。1943年9月末にサイパンは絶対国防圏の中核拠点と位置づけられてはいたが、前述の通りに海軍の決戦思想や陸軍の作戦計画の迷走もあって、肝心の防備態勢の構築は殆ど進んでいなかった。 日本軍の守備計画は日本軍伝統の「水際配置・水際撃滅主義」による上陸部隊撃破に主眼が置かれていた。山がちなサイパンは断崖続きで周囲をリーフに覆われており、大部隊の上陸に適している平坦な海浜は南部西岸に位置するガラパンからチャラン・カノアまでの約40kmに渡る海岸線しかない。そのため、この海岸地帯への防衛線構築が優先され、戦車などを投入した大規模な反撃も計画していた。しかし、当初からサイパンに配置されていた日本海軍部隊は、陣地構築よりも飛行場の建設や整備を重視したため、資材や人員はアスリート飛行場の拡張や、オレアイやカグマンの飛行場造成に優先して回されていた。陸軍が進出してきた後も、さらに大本営よりパナデルの飛行場造成が命じられたため、南雲や斎藤は大本営の方針を守って、飛行場の造成を優先し陣地構築は捗らなかった。特にパナデル飛行場については、友軍の航空支援を求める意味からも、守備隊が玉砕する直前まで軍民総力を挙げての造成が続けられた。 3月にサイパンの陣地構築状況を視察した陸軍参謀は「サイパンの防御は零に等しい」という報告を行っている。その後に陸軍によるテコ入れが行われ、増援部隊が続々と到着して表面上の戦力はかなり充実し、計算上の兵力密度は1平方キロメートル当たり約236名、上陸可能な海岸に対する火力密度は1キロ当り6.5門となり、大本営陸軍部(参謀本部)作戦課長の服部卓四郎大佐は「たとえ海軍航空がゼロになっても敵を叩き出せる」と豪語し、東條も「敵がサイパンに来たら我が思う壺だ。そこで待望の殲滅戦を展開しアメリカの戦意を破砕できる」と胸を張っている。 東條の楽観的な見通しは、開戦以降初めて開催された昭和天皇を前にしての陸軍合同の御前兵棋演習において、東條が海軍軍令部の永野修身軍令部総長に「アメリカ海軍の太平洋侵攻を撃破する可能性は十分でしょうな」と質問したのに対して、永野は自信満々に「ご安心を乞う」と答え、逆に永野からの「あれだけの兵力派遣に依って各島の水際防御は完全にいきますか」との質問に対して、今度は東條が「私が太鼓判を押します」と胸を張り、その様子を見ていた昭和天皇が心から安堵していたことに基づくものであった。この頃には、海軍も東條の絶対の自信に対して、サイパンの防衛に関して幻想を抱きつつあり、連合艦隊参謀長の草鹿は東條から直接「防備に関しては参謀長(東條)が太鼓判を押す、海軍はよけいなことを考えずにしっかりやれ」と聞かされ、軍令部作戦課長山本親雄は「マリアナには全然来ないとは思わなかったが、あれほど早く来るとは考えていなかった。マリアナには陸軍兵力が入り、相当自信があるのでまず大丈夫と考えていた」という。 東條の楽観的な見通しに加えて、大本営の多くの参謀が「アメリカ軍はいずれマリアナに来るが、それはパラオに来寇した後で、時期としては1944年末」と見ていたことから、部隊の輸送や陣地構築の計画は当初よりも後ろ倒しとされており、大本営は、サイパン防衛の主力である第43師団の各部隊が、順次到着した5月になってからようやく「水際撃滅戦のため、諸隊は遅くとも到着後1ヶ月以内に野戦陣地を完成し、爾後成るべく速やかに要部を永久築城化し、概ね3ヶ月以内に特火点を根幹とする堅固なる陣地を完成すべし」という命令を出している。従って、大本営が目論んでいたサイパンの要塞化は最速でも1944年9月以降ということになり、実際にアメリカ軍が侵攻してきた6月には“野戦陣地”程度しか完成していなかった。水際陣地はところどころに軽掩蓋の重火器陣地があるぐらいで、多くは露天の散兵壕程度のものであり、また後方との交通壕もなく各陣地は孤立化していた。 深刻であったのが建築資材不足で、兵力や装備の輸送が優先されたことから、建築資材の輸送は後回しとされて、6月の時点ではまだ大半が日本内地にあった。その一部が搭載された第3530船団も6月4日と6日の潜水艦攻撃で6隻中5隻が撃沈されて資材の殆どが海没してしまった。従って、慢性的なコンクリート不足のために陣地の多くが木や土で作られることとなった。砲兵の射撃陣地も露天掩体であり、上空からは丸見えとなっており、そんな簡易な砲掩体ですら、全重砲の1/3しか構築できていなかった。戦車第9連隊も戦車を格納する陣地を構築しようとしたが、サイパンの地質は石灰岩で固いため、ダイナマイトや建築機器も持たない戦車兵たちはつるはしとシャベルで固い地面と格闘し、2か月かかって戦車がどうにか格納できるぐらいの穴を掘るのが精いっぱいであった。弾薬は1会戦分は備蓄できていたが、そのうち弾薬庫などに格納できていたのは1/3程普度で、残りの2/3はアメリカ軍上陸時にも埠頭地区に露天で山積みされたままと全く防衛準備は進んでいなかった。軍司令官の小畑はこのような状況を見て「恒久建築用に適した資材を入手できるまでは、防御陣地を目に見えるほど強化することは不可能だ。兵士がいかにたくさんいようとも、彼らは陣地構築に関しては何もすることができず、腕を組んで座っているだけだ。とても我慢できない状況に置かれている」と海軍の南雲に不安を打ち明けている。最高司令官である南雲も、サイパンに発つ前、家族に「今度は生きては帰れないぞ」語っていたなど戦死を覚悟していたという。 また、サイパン防衛の主力であった第43師団は、日本内地ではもっぱら名古屋の防空と工業地域の防衛訓練に注力してきた部隊で、地上戦闘の訓練は未熟のいわゆる“弱兵師団”であった。サイパンへの進出命令が出て、出発するまでの1か月間に泥縄式の島嶼防衛訓練を繰り返し、形ばかりの“精鋭師団”となってサイパンに送られたが、師団主力がサイパンに到着したのはアメリカ軍上陸のわずか1か月前の5月20日であり、補給が滞ってただでさえ少ないセメントや鋼材などの資材にも乏しく、多くの将兵たちはやることもなく、ずっと「腕組みをして突っ立ている」という有様であった。結果的には日本軍の防衛準備は少なくとも100日は遅延しており、師団長の斎藤は「海軍の護衛力も貧弱で、サイパンの持久戦は覚束ない」と嘆じ、遅かれ早かれ玉砕の運命に終わることを予感していたが、前線の悲観的な見通しとは裏腹に、軍中央の強気な姿勢は変わらず、大本営の報道部長は東條の楽観的な見通しに準じて「敵のサイパン来寇は無謀の大冒険」であるとか「自ら墓穴を掘る以外の何物でもない」という報道を行い国民の安堵を促している。 斎藤はサイパンを北から、北地区、海軍地区、中地区、南地区の4地区に分割し、各地区にそれぞれ核となる部隊を配置した。そのうち、ガラパンを含む40kmの海岸線の中央で、最もアメリカ軍の上陸の可能性が高い中地区と海軍地区は、歩兵第136連隊(連隊長小川雪松大佐)の担当地区とし、ガラパン周辺の海軍地区には、第1大隊(福島勝秀大尉)を置き、第5根拠地隊の唐島部隊や第55警備隊(司令:高島三治大佐)などの海軍部隊は、反撃戦力として海岸線から離れた位置に配置転換し、海軍地区という地区名も中地区右地区に変更した。オレアイ周辺の中地区には第2大隊(安藤正博大尉)が配置され、中地区左地区に地区名が変更された。残る第3大隊(野々村春雄大尉)は師団に予備として拘置され、タポチョ山南東に配置され反撃戦力として使用される計画であった。サイパン北部は歩兵第135連隊が、輸送船が撃沈されて大損害を被っていた歩兵第18連隊に代わって守備を担当することになった。歩兵第18連隊は順次グアムに移動していったが、第1大隊(久保正男大尉)と迫撃砲中隊と衛生隊はグアムに移動前にアメリカ軍が侵攻してきたため、そのままサイパンに残されることとなっている。重要拠点アスリート飛行場もある南地区には、第43師団以外の派遣隊や、輸送船を撃沈されてサイパンに残置された部隊などを再編制して組織された独立混成第47旅団(旅団長:岡芳郎大佐)の、独立歩兵第315大隊(河村勇二郎大尉)、独立歩兵第316大隊(江藤進大尉)・独立歩兵第318大隊(宮下亀冶大尉)と、第3530船団で大損害を被っていた歩兵第118連隊第1大隊が配置された。
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