飛行場造成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/08 14:02 UTC 版)
計画が順調に進みだした約3か月半後の1915年1月3日に、深草練兵場から離陸した後に荻田は墜落死した。訃報を聞いた八日市町は飛行場事業を継続し、同年4月には地元有力者・京都の土木業者の支援を受けて飛行場の造成を開始した。飛行場用地買収費・整地費は、横畑町長をはじめ町議会議員全員の連帯責任で借り入れをおこなったが、のちに「開墾費」の名目で町民に負担させようとしたことから問題となった。同年6月に飛行場は完成した。 また、それに並行して荻田の協力者で実業家の熊木九兵衛を中心として行われていた荻田の機体を復元した「第二翦風号」も7月にエンジン修理を終え、1916年(大正5年)1月29日、パイロットとしてチャールズ・フランクリン・ナイルス(英語版)を招聘、午後5時より飛行場で5分間飛行を行った。ナイルスは3月まで留まり、第二翦風号によるさまざまな飛行を試みた。また、5月に孫文や雨森俊彦の依頼で中華革命党航空学校生徒の飛行技術訓練に使用された程度で、それ以外ではあまり利用されなかった。 そんな中、陸軍航空部隊を誘致する計画が持ち上がり、大正座で誘致の是非を問う町民大会が開催された。飛び入りで参加した熊木九兵衛は、壇上で引き続き民間飛行場としての運営継続を主張し、6月に帰国後事故死したナイルスに代わりフランク・チャンピオンの招聘を告知した。1917年5月に来日したチャンピオンは、来るべき翦風飛行学校教官として資金を集めるべく各地で曲芸飛行を行おうとしたがトラブルに見舞われ、10月30日に高知の朝倉練兵場で行われた飛行大会で墜落死、「第二翦風号」も全壊した。 財産を使い果たし、妻の実家から絶縁を言い渡された熊木はやがて八日市町を去り、翦風飛行学校の開校も頓挫した。1917年11月に滋賀県で陸軍の特別大演習が行なわれ、沖野ヶ原飛行場が使用された。これを契機に八日市町も本格的に誘致を推し進めた。陸軍の飛行場を造成しようとすると広大な土地が必要なため、八日市町だけでなく隣接の村々からも土地を買収して造成を進めた。造成費用は八日市町と周辺3村、神崎郡・蒲生郡・滋賀県が支出した。
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