飛行士としての活躍
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1917年(大正6年)に再度上京し、帝国飛行協会の第3期操縦生試験に合格(合格者3人のうちの1人)、陸軍への依託操縦生として飛行訓練を受け、翌1918年(大正7年)5月に卒業した。1918年(大正7年)8月には陸軍に看護卒補充兵として召集され、シベリア出兵に従軍している。翌1919年(大正8年)に復員し、帝国飛行協会技師となった。 1920年(大正9年)8月、帝国飛行協会主催の第1回懸賞飛行大会に伊藤式恵美16型「富士号」で出場(「富士号」は父から5000円の出資を受けて製作したといい、120馬力のエンジンを搭載していた)。飛行高度は5000メートルを超え、高度飛行と高等飛行で1位となった。9月には「富士号」で郷土訪問旅行を行い、故郷に錦を飾った。 1921年(大正10年)に航空法が施行されると、日本で第一号の一等操縦士・一等飛行士の免許を取得した。1922年(大正11年)、東京・上野で開催中の平和記念東京博覧会の開催に際して、各務原(岐阜県)から代々木まで、2人の新聞記者を乗せて飛行した。これが日本最初の旅客輸送である。1923年(大正12年)4月の二度目の郷土訪問旅行を行い、宮崎市の一ツ葉浜で航空ショーを行ったほか、延岡では母のチカを同乗させて空を飛んでいる。 1923年(大正12年)、日本航空株式会社(川西航空機系。現存の同名企業とは別会社)が設立されると、運行責任者として定期航空の推進を行った。 1924年(大正13年)には、大阪毎日新聞社の企画により、日本初の日本一周飛行を行った。7月23日から7月31日まで、後藤の操縦する川西式K-6型「春風」号は、大阪 - 鹿児島 - 福岡 - 金沢 - 秋田 - 室蘭 - 大湊 - 霞ヶ浦 - 江尻 - 四日市 - 大阪の4,395kmを飛行、飛行時間33時間34分であった。1926年(大正15年)には大阪 - 京城 - 大連の空路を開拓、日本初の海外郵便物空輸を実現した。 1927年(昭和2年)5月、宮崎県と宮崎市が行った宮崎産農産物の販路拡大キャンペーンに協力し、川西式K-8型で宮崎から大阪へカボチャ(日向かぼちゃ)などを輸送したが、これは日本初の生鮮農産物空輸となった。
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