サイパン、フィリピン方面での護衛戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 00:33 UTC 版)
「夕凪 (2代神風型駆逐艦)」の記事における「サイパン、フィリピン方面での護衛戦」の解説
1944年(昭和19年)3月10日、外南洋部隊襲撃部隊は解消され、所属していた第三水雷戦隊および駆逐艦3隻(松風、秋風、夕凪)は中部太平洋方面部隊(指揮官南雲忠一海軍中将、中部太平洋方面艦隊司令長官)に編入された。夕凪は松輸送に動員され、海上護衛総司令部(司令長官及川古志郎大将)の指揮下に入った。軽巡洋艦龍田(第十一水雷戦隊旗艦、司令官高間完少将)、駆逐艦(野分、朝風、夕凪、卯月)、海防艦平戸、敷設艇(測天、巨済)、第20号掃海艇と共に、サイパン・グアム方面へ向かう東松二号船団の船舶12隻の護衛に就いた。3月13日、龍田と輸送船国陽丸が米潜水艦サンドラスの雷撃で沈没した(旗艦を野分に変更)。船団は19日にサイパンに到着し、4隻(卯月、夕凪、対馬丸、あとらんちっく丸)はトラック島に向かった。4月15日、夕凪は東松六号船団に参加する。第七護衛船団司令官松山光治少将の指揮下、駆逐艦(帆風、卯月、夕凪)、海防艦(三宅、6号)、駆潜艇(10号、12号)、掃海艇(20号、28号)、敷設艇(猿島、巨濟、由利島)と共に船舶18隻を護衛し東京湾を出撃する。グアム行・小笠原行船団を分離し、残る船団は無事23日朝にサイパンに到着した。その後も、夕凪は各方面への輸送船団を護衛した。 5月1日、夕凪はトラック島空襲で沈んだ睦月型駆逐艦文月の代艦として第22駆逐隊に編入され、同隊は駆逐艦3隻(皐月、水無月、夕凪)となった。5月3日、連合艦隊は新たな軍隊区分を発令、連合艦隊司令長官豊田副武大将直率の主隊(軽巡〈大淀〉、駆逐艦〈霜月、夕凪、松風〉)が編成された。5月20日発令の兵力部署でも、ひきつづき主隊に所属した。27日、夕凪は中部太平洋方面部隊への復帰と、サイパン進出を命じられた。6月6日、夕凪は補給部隊の護衛として、佐世保を出港した。 詳細は「マリアナ沖海戦」を参照 6月15日、米軍はサイパン島に上陸を開始した。『あ号作戦』が発動され、第一機動艦隊(司令長官小沢治三郎中将)補給部隊の護衛としてマリアナ沖海戦に参加した。18日0700、内地から来た給油艦速吸、駆逐艦(初霜、栂)が補給船団に合同する。この時の夕凪は軽巡洋艦名取(6月5日、呉発)と共に行動していたとみられ、1500に補給部隊と合流すると、名取艦長が補給部隊の指揮をとった。19日、名取は補給部隊から分離し、マニラにむかった。6月20日における機動部隊補給部隊の編成は、駆逐艦(初霜、栂、卯月、雪風〈座礁被害により最大速力26ノット〉、夕凪、響)、油槽船(速吸、日栄丸、国洋丸、清洋丸、玄洋丸、あづさ丸)であった。同日、補給部隊はマリアナ沖で米機動部隊の空襲を受け、大破した清洋丸と玄洋丸が処分された。海戦に敗れ、補給部隊は23日にネグロス島バコロド、夕凪は24日に対岸のギマラスに到着した。第二補給部隊と第三補給部隊は内海西部に回航され、他の油槽船はフィリピン方面に残った。7月10日、駆逐艦3隻(夕凪、響、藤波)はタンカー2隻(速吸、旭東丸)を護衛してマニラを出港、17日に呉へ帰投した。
※この「サイパン、フィリピン方面での護衛戦」の解説は、「夕凪 (2代神風型駆逐艦)」の解説の一部です。
「サイパン、フィリピン方面での護衛戦」を含む「夕凪 (2代神風型駆逐艦)」の記事については、「夕凪 (2代神風型駆逐艦)」の概要を参照ください。
- サイパン、フィリピン方面での護衛戦のページへのリンク