サイパン丸の就航
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/26 04:38 UTC 版)
この航路に就航していた船舶は山城丸(3,606トン)や近江丸(3,582トン)、泰安丸(3,135トン)、天城丸(3,165トン)など、明治時代末から大正時代に建造された主力を占めていた。昭和時代に入って、人員や物資の往来の更なる増加に対応して、新鋭貨客船を建造することとなった。その第一船として建造したパラオ丸(4,495トン)に続いて建造されたのがサイパン丸である。 サイパン丸は1936年6月16日に三菱重工業長崎造船所で竣工した。船体は先に竣工したパラオ丸よりも1,000トン大きく、船客定員もパラオ丸より若干多かった。サイパン丸およびパラオ丸は、三連成レシプロ機関から排出された排気ガスでタービンを回し、出力を増す方式を採用していた。船名に関しても、海外の地名や国名を船名に取り入れる際には、例えばあるぜんちな丸(大阪商船、12,755トン)などのように、平仮名か漢字表記にすることが多かったが、サイパン丸とパラオ丸に関しては片仮名表記であり、「片仮名+丸」の表記は少なくとも第二次世界大戦前の日本船舶の名前としては数少ない存在であった。 サイパン丸はパラオ丸に続いて竣工後ただちに航路に投入されたが、1937年からの日中戦争に際し、青島の日本人居留民引揚げのため同年8月に、日本政府に一時傭船された。その後は1941年9月3日から6日まで日本海軍の裸傭船になった時期を除けば通常の航路に就航し続け、これは太平洋戦争開戦後も基本的には変わらなかった。変わった点と言えば、航路が船舶運営会による運営になったこと、航路に対する敵の攻撃に備え不定期運航になったこと、輸送船団に加入すること、帰途の船客に引揚げ者が目に付いたことが挙げられた。1942年の時点で、8月5日にパラオ丸が、12月28日に近江丸がそれぞれ戦渦により沈没していた。
※この「サイパン丸の就航」の解説は、「サイパン丸」の解説の一部です。
「サイパン丸の就航」を含む「サイパン丸」の記事については、「サイパン丸」の概要を参照ください。
- サイパン丸の就航のページへのリンク