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由利島

読み方:ユリジマ(yurijima)

防予諸島一部忽那諸島属す瀬戸内海無人島

所在 愛媛県温泉郡中島町

位置・形状 松山市の西15km丘陵性のへの字形島で、両輝石安山岩からなる

島嶼名辞典では1991年10月時点の情報を掲載しています。

由利島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/24 08:02 UTC 版)

由利島

由利島の空中写真。
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成(1974年撮影)
所在地 日本愛媛県
所在海域 瀬戸内海
座標 北緯33度51分8秒 東経132度31分27秒 / 北緯33.85222度 東経132.52417度 / 33.85222; 132.52417座標: 北緯33度51分8秒 東経132度31分27秒 / 北緯33.85222度 東経132.52417度 / 33.85222; 132.52417
面積 0.61[1] km²
最高標高 174[2][3] m
由利島 (愛媛県)
由利島 (日本)
プロジェクト 地形
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由利島(ゆりじま)は、伊予灘に位置し、愛媛県松山市に属する松山港の沖合の無人島である。面積0.61平方キロメートルの小島である。

概要

大小2つの島が潮流によって接合された陸繋島[2]砂州でつながった形をしており、それぞれ大由利、小由利(標高102.9メートル)と呼ばれている[2][注釈 1]。両島とも安山岩でできており[2]、標高174メートル。

歴史

松山市の遺跡埋蔵文化財包蔵地)分布地図によると、島内には由利島遺跡(弥生時代遺物散布地)・由利島大谷遺跡(中世の遺物散布地)・由利島長者屋敷遺跡(中世城館)という3遺跡が登載されている[4]。小由利島の由利島遺跡からは、弥生時代中期の弥生土器として・高坏(たかつき)が多数出土しており、1世紀ごろに島が東九州安芸周防の中継地として栄え、この頃から人が住んでいたものと思われる[1][5]。古代には周防国安芸国九州との中継地となっていたと見られている。大由利島山腹の夜叉ヶ宿や大谷からは土師器系と考えられる平安時代鎌倉時代かわらけ片、貝塚が出土している[1][5]

『風早郡地誌』には「由利島、東西十五町、周囲一里十町、樹木なく(まぐさ)あり。間に田畑を見る、島民居成すもの僅かに二戸、男女皆農を業とす」の記載があり[3]、古くは採草地として利用されていた[2]。かつては由利千軒と呼ばれるくらい沢山の人家があったと伝えられているが、13世紀後半の弘安年間(1278年-1288年)に地震津波とする説もあり)により水没したといわれ、海中に井戸らしき石積みも散見されている[1]。また民俗学者の宮本常一の取材によると17世紀の周防灘の大地震で西の島(大由利)が沈んだと記している[6]

付近の海域は古くからなどの好漁場として知られ、高浜港二神島との漁民の間で漁場をめぐる争いが絶えなかった[1]近世には紀州塩津村から漁期のみ人が住み着き、今日でいう入漁料を払って漁労を行っていた。後年、忽那諸島の二神島や長師(中島)だけでなく、安芸の瀬戸村岩城島(越智諸島)などからも出漁する者が出て争いが絶えず、寛文9年(1669年)に議定書が交わされ、長師村杉野五右衛門、二神村源三郎、瀬戸の加藤太衛門の三人が干鰯の値段を合議することになった[2]宮本常一によると17世紀の地震で島を捨てて三津浜の仮屋に移りさらに高浜の新苅屋へ移った。寛文年間に紀州の漁民がイワシ漁を操業しようとし、二神島では許可したが旧島民の新苅屋は反対して二神と新苅屋の間で漁民の争いが続いたという。

次第に二神島から漁民が移り住むようになり、特に昭和初期には好漁が続き、夏の漁期には数百人が暮らし、全盛期には浜に10基を超す鰯網の窯場が設けられた[2][1]太平洋戦争時には日本海軍により、大由利山頂に監視哨や高射砲陣地、探照灯が設置されていた[1][7]

以前は砂洲付近(通称明神)と北側の浜(砂浜)に集落があった[1]。大由利には長者屋敷、寺床の地名が残り、最南端には1951年昭和26年)に設置された灯台が立っており、島内には海食洞も見られる[1]。砂洲の西側には池塘を掘削して出来た人工入江があり、由利漁港として市管轄の第一種漁港の指定を受けている[1]。やがて不漁となったため、住民数は1955年(昭和30年)に75人、1960年(昭和35年)には21人と減少し、1965年(昭和40年)には最後の6人が島を離れ、無人島となった[1]。砂州にはかつての集落跡、漁港跡があり、魚干し場や井戸の跡も残っている。

産業

寛文年間(1661-1673)のころからイワシ漁やタコ壺量が盛んになり、並行してイワシから取れるイリコ製造の窯場や煮干しづくりなど海産業で島は賑わっていた[8][9][注釈 2]。かつては野生の鹿が島に住み着き、江戸時代末期には伊予松山藩が肉や毛皮を取っていたりもしたが外国人などがボートで上陸し鉄砲で鹿狩りをしたため絶滅した[10]。山は肥沃であり、農作物としてサツマイモや麦、玉ねぎ、豆どを栽培しており、斜面は一面イモのツルなどで埋め尽くされていた[11][12]。ミカン(温州みかん、伊予カン、ネーブル[13])の栽培なども斜面を使って積極的に行われていた[14]

その他

  • かつて無人島にも関わらず赤電話が引かれ、船舶の避難用、出作の人や漁民などの連絡用として用いられていた。家屋型の電話ボックスもあり、椎名誠はこの島を訪ねた際に赤電話を使用したことなどをエッセイで紹介している[15]。無人島時代にも年1、2回ほど使用料金の回収があり、2000~3000円ほどの公衆電話使用料があったという[16]。使用頻度が少ないために1986年(昭和61年)には一度撤去されるものの「海底ケーブルが故障するまで」との約束で二神島の住民が費用を負担することで再設置、存続されたがケーブルの切断により1993年平成5年)2月には不通となり、電話機も撤去された[1]
  • 公職選挙法施行規則(昭和25年総理府令第13号)第16条に規定された「期日前投票又は不在者投票を行うことができる地域」の一つである(愛媛県内ではほかに四阪島が指定されている)[17]。2021年現在、無人島となって久しいものの、施行規則からは削除されておらず、このため松山市選挙管理委員会の期日前投票宣誓書には、期日前投票を行う事由の選択肢に「由利島に居住・滞在」が含まれている[18]

ロケ地としての利用

  • 進ぬ!電波少年』の無人島脱出企画の舞台である[19][20]。当時島は無人であったが、島内の山中に作業小屋が存在しRマニアが寝泊まりに使用した[21]
  • 2012年ごろからテレビ番組のロケ地として利用され、建物や設備の建設などが行われている[22]
  • 日本テレビ系列で放送中のバラエティー番組『ザ!鉄腕!DASH!!』の無人島「DASH島」の開拓企画の舞台について、日本テレビは明らかにしていないものの、インターネット上では由利島であるとされている[23]。『愛媛新聞』は2021年時点で、無人島を開拓するテレビ番組の企画などを除き、由利島に人が立ち入ることはほとんどないと報じている[24]

ギャラリー

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l シマダス、p.667
  2. ^ a b c d e f g 愛媛県百科大事典・下、p.662
  3. ^ a b 角川地名大辞典、p.674
  4. ^ 埋蔵文化財包蔵地図及び一覧表(中島地区)松山市公式サイト
  5. ^ a b 平凡社、p.346
  6. ^ 宮本1968、p.262、宮本2007、p.108
  7. ^ 椎名誠、p.61
  8. ^ 倉掛1986、pp.198-200、pp.204-207
  9. ^ 宮本1968、p.263、pp.272-275
  10. ^ 宮本1968、pp.265-266
  11. ^ 宮本1968、pp.267-268
  12. ^ 宮本2007、p.108
  13. ^ 倉掛1986、p.200
  14. ^ 宮本1968、pp.268-269
  15. ^ 椎名誠、pp.51-66
  16. ^ 椎名誠、p.62
  17. ^ 昭和二十五年総理府令第十三号 公職選挙法施行規則”. e-Gov法令検索. 2021年10月27日閲覧。
  18. ^ “無人島なのに期日前投票? 投票所入場券の謎、記者がたどった”. 朝日新聞. (2021年10月27日). https://www.asahi.com/articles/ASPBV5K72PBQPTLC00W.html?iref=comtop_7_01 2021年10月27日閲覧。 
  19. ^ 「徹子の部屋」収録見るには…テレビ業界の大疑問 NIKKEI STYLE 2015年5月18日 2018年4月2日閲覧
  20. ^ 電波少年 Rマニア電波少年的無人島脱出&スワンの旅(3) 日テレオンデマンド(要購読契約) 2018年4月15日閲覧
  21. ^ 電波少年 Rマニア電波少年的無人島脱出&スワンの旅(1) 日テレオンデマンド(要購読契約) 2018年6月21日閲覧
  22. ^ シマダス、p.667。シマダスでは「平成24年ごろからテレビ番組のロケ地として利用されており、小由利と大由利を繋ぐトロッコレールの建設、拠点となる建物の整備、有志による矢立大名神社の再建」の記あり。
  23. ^ TOKIO国分太一、パパになることで懸念されるグループ内での「さらなる孤立」徳間書店 アサジョ 2016年6月21日配信)2020年7月23日確認
  24. ^ 愛媛新聞』2021年8月8日朝刊10頁「えひめの歴史文化モノ語り 県歴博収蔵資料から(99) 三足付土釜 無人島にかつての営み」(愛媛新聞社 専門学芸員・亀井英希)

注釈

  1. ^ 宮本によると東側の大きな島を小由利、西側の小さな島を大由利と呼んでおり、かつては西の島の方が大きかったが後述の地震により沈んでしまったとしている(宮本1968、p.262)(宮本2007、p.108)。
  2. ^ 宮本によるとイワシの干されている面積は5000坪を超え漁獲高は600桶にのぼったというが目分量であり実際にはそれよりもっと多かったと記している(宮本1968、p.272)。

関連書籍

  • 宮本常一『私の日本地図4』(同友館、1968年)
  • 『愛媛県の地名』(平凡社、1980年)
  • 『愛媛県百科大事典・下』(愛媛新聞社、1985年)
  • 椎名誠『あやしい探検隊不思議島へ行く(』光文社、1985年)
  • 倉掛喜八郎『ポンポン船の旅』(大阪書籍、1986年)
  • 『角川地名大辞典』(角川書店、1988年)
  • 宮本常一『宮本常一写真図録 第1集』(みずのわ出版、2007年)
  • 『SHIMADAS(シマダス)』(日本離島センター、2019年)

参考文献

関連項目


由利島(ゆりじま)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/14 09:04 UTC 版)

平島型敷設艇」の記事における「由利島(ゆりじま)」の解説

1942年(昭和17年)11月30日竣工。(日本鋼管鶴見造船所)。1945年(昭和20年)1月14日戦没(マレー半島沖、米潜コウビア)。

※この「由利島(ゆりじま)」の解説は、「平島型敷設艇」の解説の一部です。
「由利島(ゆりじま)」を含む「平島型敷設艇」の記事については、「平島型敷設艇」の概要を参照ください。

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